学ぶということは
突き詰めれば
自問自答に尽きます。

自らの中に生まれた
「疑問」の答えを
自らの足で見つける旅です。
初めは成長のために必要な
「疑問」すら持てません。
何故なら人は
「当たり前」という視点から
外れることを
無意識に嫌がるものだからです。
自分の中にある
「当たり前」を見直すこと
それが出来て初めて
学びの為の滑車が
ゆっくり動き出すのです。

お寺などの修行にある
「禅問答」には答えがないと言います。

自分の頭で考える事が出来なければ
人の悲しみや喜びに
心から寄り添える
「覚悟」は育まれないのです。

私も様々な仕事をしてきました。
ほとんどは、初めてのことばかりで
初めはただただ
言われるままに動くこと
そのうちに、その動きが
後々何に影響するのかが
わかり始めます。
中にはなかなか
理解できないことが出てきて
そこで初めて
「疑問」が生まれるのです。
どうしてそれが必要なのか
なぜそうするのか
おそらく「厳しい修行先」では
それすらなかなか
教えてくれないでしょう。

そこで諦めるのもひとつ。
そこでふてくされるのもひとつ。
そこでわからないなりに
言われたことを
続けるのもひとつなのです。

「わからないこと」を
ずっと意識して
試行錯誤していれば
自ずと観察眼が磨かれていきます。
それは、技術だけでなく
心の成長に欠かせないものであり
生きていく上で
大切な礎になります。

わからないことにも
いつか
わかる日が来ます。
そして、また何かに
ふとした疑問が生まれるのです。

「疑問」は人生の
宝箱を開けるためのカギです。
人生を生き切るための
オールにもなります。
ふてくされたり
投げ打てばそれまでなのです。

人が人に何かを教えることには
限界があります。
学ぶ意欲に対してのみ
呼応するものであり
その意欲自体は
教えられるものではありませんし
教える側の言葉の鵜呑みでは
何も身につきません。

自分の頭で考える
その癖を身に付けることが
何よりも大切な
「学び」の本質であります。

子供をどんなに愛していても
その子の描く夢や希望は
買い与えることは出来ません。

その子自身の自発的な
心の動きの中にしか
その子の夢や希望は
存在しないからです。

自発的な心の動きを支えるのは
自分で考えることのできる
頭が欠かせません。
その頭を鍛え
成長させるためには
わかりやすく
優しいばかりの大人は
逆に不親切な場合もあるのです。