これまで
ルイス、しずく、まこ、大河を
それぞれ異なる4団体から引き取り
末っ子のココアはアルマから。
とはいえ、アルマに出会うまでは
愛護団体での実際の活動とは
ほぼ無縁の生活をしておりました。
そういう意味でいえば
私の動物愛護団体活動のデビューは
とても最近のことであり
長く活動している人からすれば素人同然。。。
そんな素人な私が
今日に至るまで、
アルマに関わり続けていられるのは
アルマという団体・・・代表の考え方や
ティアハイムという環境に
新しい愛護団体の在り方の芽吹きを
感じているからなのです。

アルマに出会う前も
当然ながら動物は犬猫に限らず好きでした。
捨て猫や捨て犬を前にしたときの
自分の非力さを
痛感する日々を過ごした幼少期に
動物を助けてあげられる人に
なりたいと思っていたものの
取り立てて何者にもなれずにきました。
職業的に叶わなくても
様々ある愛護団体への参加は
もっと前から可能であったにもかかわらず
アルマに参加するまで
本腰で考えてこなかったのには
愛護団体の持つ
独特の「熱さ」についていけないと
漠然と思っていたからかもしれません。
同じ熱さを持ち合わせていないと
浮いてしまうような気がしていたのです。

ルイスとの出会いから
何かに導かれるようにロスへ
そして、ティアハイムへ

ティアハイムに初めて訪れた時
正直、まだ少し偏った見方をしていました。
元々、組織や団体といったものに興味がなく
妙に組織ばっていたり
グルーピー的な感覚が強い場所であったなら
おそらく通い続けることは
難しいだろうなと思っていたからなのですが
ティアハイムは私のイメージを
良い意味でひっくり返してくれました。

思っていた以上に
閉鎖的な雰囲気はなく
集う人たちが楽しそうに
それぞれが出来ることを
必要に応じて手伝い
思い思いに過ごしていて
これなら続けられるかもしれないと
少し安心したことを今でも覚えています。
私にとってのアルマは
ティアハイムありきでのスタート。
それ以前の活動の様子などは
全く知らなかったのですが
私が初めて行ったときには
すでに中型ミックスが溢れており
それが当たり前な光景なのかと思っていたら
ティアハイムが出来るまでは
中型ミックスの引き出しが
ほとんどなかったということで
このアルマという団体が
やろうとしていること
目指すところに
とても新しい可能性を覚えたのです。

わたしは犬も猫もニワトリもヤギも牛も…
すべての動物が
分け隔てなく好きなのです。
ですから、犬も

大中小それぞれの可愛さがあり
純潔だろうがミックスだろうが
ハナクソ程の差しかないと思っています。

みんな、等しく可愛い「命」です。

ビビりだろうが、きかんぼうだろうが
甘ったれだろうが、ワガママだろうが
みんな等しく、
懸命に生きている「命」なのです。

自分の好みに合わせて
何かを作り上げる嗜好を
人は誰しも持っています。
その、人の本能に近い
嗜好性という
抗えない部分を揺さぶって
肥大化してきたのが
今のペット業界です。

彼らが扱うものは
「犬種」という「ブランド」であり
犬という動物ではありません。
「特定のモノ」を「集める」ということも
人の嗜好性の一つであり
その心理の裏には
良し悪しは別にして
無意識の特権意識や
差別意識が潜んでいるものです。

もしも、アルマが
そうした特定の犬種に

特化した団体であったならば

私は何も言わずに
おそらく早々に

退会していたことと思います。

「犬種」への思い込みや
「ブランド」志向などの
人工的な概念に
侵されていないという意味で
中型mixという存在が
人が犬を学ぶ上で
とても大事な役割を
担ってくれると感じていましたから
ティアハイムという環境を整え
中型mixの引き取りを開始した

代表の思いに
大変共鳴したのです。

これからの愛護団体は
「量産された可哀想な犬猫達」の
ためだけのものではなく・・・
普通の飼い主さんや、
犬や猫をこれから迎えたい人達にとっての
「開かれた案内所」として
既存のペットショップや
しつけ教室以上の情報を発信する存在に

なっていかなければ
犬猫を取り巻く環境を

大きく変えることは出来ないと
個人的に思っています。

ペットショップに行く消費者の多くが
その裏側で行われていることを知りません。
動物が好きで、専門の学校まで出て
ペットショップに就職した人達が
精神的に病むには
それなりの理由があるのです。

目の前の可哀想な扱いを受けた犬を
救うことと同じくらい
何も知らずに
ペットショップに足を向ける人たちを
何も知らずに犬猫を迎えた人たちを
いつか犬猫を迎えたいと
願う人たちを迎え入れ
犬猫と生きるための必要な知識と
素晴らしさを伝える場所が
いま求められていると感じています。

話が少しそれますが
アルコール依存症の患者にとって
どんな存在が一番「悪」かという問いに
ある人がこんな風に答えたのを思い出します。

患者にとって一番身近で
「助けようと頑張る家族」が
いちばんの「悪」だと。

アルコール依存者が起こす数々の問題を
ひとつひとつ解決してくれる

心優しい家族がそばにいる限り
その依存患者はアルコールと

手を切ることは出来ません。
家族は患者が引き起こす問題を

解決していることで
依存患者を助けている

つもりかもしれませんが
依存患者はいつまでたっても
依存を断ち切るきっかけを

つかむことが出来ず
延々と苦しみ続けるというのです。

この話は、愛護活動にも

通じるものがあります。
良かれと思ってやっていることが
根本的な解決をかえって遠ざけてしまう・・・

そんなことにならない為にも
何かを救おうとする時は
感情的になることを避け
冷静に取り組まなければなりません。

ペットショップの生体販売がある限り
「可哀想な犬」はいなくなりません。

ペットショップに行く人を減らさない限り
「生体販売」はなくなりません。

飼いたい犬と飼える犬が
違う場合があることを知らなければ
「犬を捨てる人」は後を絶ちません。

感傷的になり、
「可哀想な犬」にばかり目を向けて
それらの事象を後追いしたような役割に
終始していては
アルコール依存患者の
尻拭いをし続けるだけの家族と
何ら変わりないように思うのです。

「可哀想」と言い出したら
正直きりがありません。

人間に関わる
すべての「可哀想」な動物を
救えないのであれば・・・
「可哀想」という言葉は
安易に使ってはならないと
人間として
自分を戒めることすらあります。

可哀想の代わりに謝罪と感謝を。
可哀想の代わりに悔い改める努力を。
可哀想だからと感情的になっては
助けられるものも

助けられなくなることがあるのです。


何が可哀想で
何が可哀想でないかは
人によって変わってしまうもので

あったりもします…

それに
あれは可哀想だけど
これは可哀想ではない・・・。
そうした差別意識こそ
「愛護」という精神から
最も遠い意識の持ち方だと
個人的に思っています。

可哀想な動物の数だけ

正しい知識を持ち合わせていない人が

いるとも言えるのです。

動物と人の両方に助け舟を出さなければ

現状は何一つ変わりません。

愛護団体の在り方が変われば
集う人も意識も変わります。
その前向きな変化こそ
日本の動物愛護への意識を
根底から変えていく源流になっていくと
私は確信しています。