私は、叱られた方が良い。
私は、犬ではないですが
社会的な生き物としてそう感じているのです。
私は叱られるより、無視されることの方がツライ。
正解の行動を延々と無視されながら探す方がツライ。
街中での、大泣きしながら母親の後を追う子供を
見捨てるように無視している母親の顔が私にはツライ。
立ち止まって、何故納得させないのだろう。
子供に分かる様に何故話してやらないのだろうと思う。
納得させられないなら、何故上手に話をすり替えて
笑わせて誤魔化してやらないのだろうと思う。
どんなに、正解した時に
盛大に褒められたとしても
無視された不安は心の傷となり絶対に忘れない。
人でも犬でも
常にその不安がある中で生活するのは苦痛だと私は思う。
感情を爆発させるのは無論「怒り」であり
「叱り」ではありません。
相手の心身の安全を念頭に置いて「叱る時」
それは、とてもエネルギーを使いますが
そのエネルギーが人にも犬にも必要なのだと思うのです。
「利他の心」で本気で道を指し示す人の言霊は
人にも犬にも隔たりなく伝わるものだと信じています。
「叱る」と「怒る」の差は
その判断基準が社会に照らし合わされているか
その人の感情に
照らし合わされているかどうかなのだと思います。
そして、誰かを「叱る」ためには
まずは自分を律し、相手に誠実でなければ成り立ちません。
何故なら、自分を省みない自堕落な人の発するものは
「怒り」でしかないからです。
そして、怒りを発した後に残るのは良心の呵責なのです。
人のしつけにしろ、犬のしつけにしろ
「褒める」ことばかりに注力して、
「叱る」ことを頑なに否定する人が
心の底で心配しているものは、相手のことではなく
自分の体裁のような気がしてなりません。
私事ではありますが
これまでの人生で叱られたことは数知れず
あの縮みあがる感じに慣れることはありませんが
身を呈して、叱ってくださった愛ある人達のおかげで
いまの私があるのです。
叱られて、褒められて、
人も犬も足元を踏み固めて成長していきます。
それこそが
社会的知性を持つ動物であるという、証だと思うのです。
「怒り」は心にトラウマを生みますが
「叱り」は心の成長を促します。
未熟ながら、違いの分かる大人でいたいと思います。
私の教育方針は、叱るべきは毅然と叱り、
褒めるべきは穏やかに褒める
子供にも犬にも理屈は通じませんから
ありのままで、ぶつかるのみが信条です。
私はトイレの失敗は叱りません。
しかしながら、例えばドッグランなどで自分の犬が
みんなの飲み水に足を突っこんで遊んでいたら
間違いなく叱ります。すっかりやめるまで粘ります。
それは、人間の子供がみんなの給食に
手を突っ込んでいるのと同じだからです。
中には、うちの子は「水遊び」が好きなのと言って
どんどんバケツを増やしていく方もいます…。
犬に、遊んでいいバケツと
ダメなバケツの違いはわかりません。
そこは、ドッグランでプールではありませんから
そもそも、水遊びをさせること自体ナンセンスなのに
「犬の興奮」を喜びという思い違いをされている人は
「犬を興奮させる」ことを厭いません。
そして、「怒らなければならない事態」を
無意識に犬に提供しているくせに
「うちの犬は言うこと聞かなくてダメ」と言うのです。
…理不尽です。
よくよく、考えれば
たいがい犬は悪くない。
犬はそんなに馬鹿じゃない。
その犬の行動が、社会的な規範に反しているか
また、その犬の安全を脅かすものかどうかが
叱るかどうかのポイントです。
そもそも、人と犬の間に「信頼」と「尊重」がなければ
「褒め」も「叱り」も存在しない。
それが、私の結論です。
私は、犬ではないですが
社会的な生き物としてそう感じているのです。
私は叱られるより、無視されることの方がツライ。
正解の行動を延々と無視されながら探す方がツライ。
街中での、大泣きしながら母親の後を追う子供を
見捨てるように無視している母親の顔が私にはツライ。
立ち止まって、何故納得させないのだろう。
子供に分かる様に何故話してやらないのだろうと思う。
納得させられないなら、何故上手に話をすり替えて
笑わせて誤魔化してやらないのだろうと思う。
どんなに、正解した時に
盛大に褒められたとしても
無視された不安は心の傷となり絶対に忘れない。
人でも犬でも
常にその不安がある中で生活するのは苦痛だと私は思う。
感情を爆発させるのは無論「怒り」であり
「叱り」ではありません。
相手の心身の安全を念頭に置いて「叱る時」
それは、とてもエネルギーを使いますが
そのエネルギーが人にも犬にも必要なのだと思うのです。
「利他の心」で本気で道を指し示す人の言霊は
人にも犬にも隔たりなく伝わるものだと信じています。
「叱る」と「怒る」の差は
その判断基準が社会に照らし合わされているか
その人の感情に
照らし合わされているかどうかなのだと思います。
そして、誰かを「叱る」ためには
まずは自分を律し、相手に誠実でなければ成り立ちません。
何故なら、自分を省みない自堕落な人の発するものは
「怒り」でしかないからです。
そして、怒りを発した後に残るのは良心の呵責なのです。
人のしつけにしろ、犬のしつけにしろ
「褒める」ことばかりに注力して、
「叱る」ことを頑なに否定する人が
心の底で心配しているものは、相手のことではなく
自分の体裁のような気がしてなりません。
私事ではありますが
これまでの人生で叱られたことは数知れず
あの縮みあがる感じに慣れることはありませんが
身を呈して、叱ってくださった愛ある人達のおかげで
いまの私があるのです。
叱られて、褒められて、
人も犬も足元を踏み固めて成長していきます。
それこそが
社会的知性を持つ動物であるという、証だと思うのです。
「怒り」は心にトラウマを生みますが
「叱り」は心の成長を促します。
未熟ながら、違いの分かる大人でいたいと思います。
私の教育方針は、叱るべきは毅然と叱り、
褒めるべきは穏やかに褒める
子供にも犬にも理屈は通じませんから
ありのままで、ぶつかるのみが信条です。
私はトイレの失敗は叱りません。
しかしながら、例えばドッグランなどで自分の犬が
みんなの飲み水に足を突っこんで遊んでいたら
間違いなく叱ります。すっかりやめるまで粘ります。
それは、人間の子供がみんなの給食に
手を突っ込んでいるのと同じだからです。
中には、うちの子は「水遊び」が好きなのと言って
どんどんバケツを増やしていく方もいます…。
犬に、遊んでいいバケツと
ダメなバケツの違いはわかりません。
そこは、ドッグランでプールではありませんから
そもそも、水遊びをさせること自体ナンセンスなのに
「犬の興奮」を喜びという思い違いをされている人は
「犬を興奮させる」ことを厭いません。
そして、「怒らなければならない事態」を
無意識に犬に提供しているくせに
「うちの犬は言うこと聞かなくてダメ」と言うのです。
…理不尽です。
よくよく、考えれば
たいがい犬は悪くない。
犬はそんなに馬鹿じゃない。
その犬の行動が、社会的な規範に反しているか
また、その犬の安全を脅かすものかどうかが
叱るかどうかのポイントです。
そもそも、人と犬の間に「信頼」と「尊重」がなければ
「褒め」も「叱り」も存在しない。
それが、私の結論です。