あの日のいま
私は近所の公園で
ルイスとまこと散歩中に
地べたがうねるような
大きな揺れを感じて
その場にしゃがみ込みました。

同じ公園に
たまたまいた見知らない人達が
あちこちで
同じようにしている姿を見て
只事ではないと思いました。

皆が一様に不安そうな面持ちで
集まり始め、繰り返す揺れの大きさに怯えながら
しばらくはそのまま動けずにいました。

揺れが、収まり始め
その場にいた人たちは
それぞれの自宅へと
足早に向かい始めました。

我が家には特段の被害はなく
安心して、テレビをつけると
東北で甚大な被害が出ているとの報道が。
義理の父は宮城。
内陸とはいえ、この時点で連絡がつかず
やっと声が聞けたのは
一週間近くたったころのことでした。

見渡す限り泥だらけの瓦礫に溢れた
被災した街の様子が連日報道され
その只中にある人達の気持ちを思うと
胸が張り裂け、涙が溢れ出そうになりましたが
被災していない私には
「涙する」よりも大切なことがあると
感じていました。

いまの私がすべきことは何か。

募金?ボランティア?
何をしたところで本当に
微々たることしか出来ない。

未曾有の震災。
想像を絶する悲しみ、甚大な命の喪失に
私達、生き残っている人間に
突きつけられる課題は
ただひとつ
「いまを、いかに生きるか」

十人十色、様々な人生があります。
しかし、どんな人生であっても
過去に囚われている時間、
未来を憂う時間は
「いま」という時間を
浪費させるものでしかありません。

悲しみは消えません。
悔しさや、憤りも絶対になくならない。
しかしながら、それを握りしめていては
いまを生きることはできないのです。
時には手放すこと、諦めることも
その「こころ」と「命」を救うために
必要な場合があります。

人はいずれ死にます。
どんなに、金持ちでも
どんなに、健康な人でも
いつかは、絶対に死にます。

そのことを忘れてはいけない。

「生」という時間には
限りがあるのですから。
今を生きずに
「生ける屍」になるのは
案外簡単なことなのです。
今を生きるということは
意識的に「生きる」ということです。

不意に訪れる命の岐路に「悔いなし」と
言える人生を送ることこそ
思いがけず、命を落とした人達の無念に
報いることだと思うのです。

皮肉なことではありますが
死を想うことで、その命の輝きを知る。
それが、人間の性かもしれません。

亡くなった人たちが、私達に残すものが
悲しみや、苦しみや
憎しみや、痛みだけであってはならない
私はそう思うのです。