かつては、スピリチュアルあるいは神秘学の師に教えを請うと、「器を空にせよ」と言われたものです。師は、すでにいっぱいまで液体が入った器に、淹れたてのお茶を注ぐことによって、話の意図を説明します。
お茶は当然あふれてしまいます。師は「これと同じです」と言い、話を続けます。「私があなたに教えを説いても、あなたは教えを受け入れないでしょう。あなたの心は、すでに誤った信念やこれまでの考えで満たされているからです。
だから、器を空にするのです」。つまり、別の言い方をすると、「既成概念や固定観念を捨てましょう」ということです。ほとんどの人は、進んで新しい考えを受け入れようとはしません。変化を嫌うのです。それでも、先へ進みたいのなら、前向きに変わらなければなりません。
多くの人が、脳の機能を活用することに対し、わけもなく不安を抱いています。頭を使って考察することを面倒だと考える人も多くいます。私たちの心はオープンで柔軟でなければなりません。しかしながら、新しい考えを受け入れる前には、しっかりと検証する必要があります。
新しい概念を受け入れるときには、論理的であるか、合理的であるかということを見極めなければなりません。つまり、私たちは考えなければならないということです!何かについて批評を述べるにしても、その批評が的を射ているなら、悪いことではありません。
ポジティブかつ建設的に批評をするのなら、新しい思想や宗教に関する話題を論じても構わないのです。心には限界があります。でも、心には役割がありますから、その役割を生かすべきです。
神秘学を学ぶ人は、自分自身について誤った考えを持たないように注意してください。自尊心を低めるような誤った考えは、持たないことが大切です。神秘学を学ぶのなら、「これはできません」「あれはできません」などと言って、自分の心や天啓を限定するべきではありません。
試してみない限り、何ができるかは分からないのです。すべての学問や研究において言えることです。私たちはよく、「完璧な人などいない」という言葉を耳にします。そして人々はこの言葉を言い訳にして、人格や道徳心、精神を高めることを怠ります。
また、「完璧な人などいない」からと、社会的な地位を得ることをあきらめている人もいます。このような姿勢で形而上学や神秘学を学べば、失敗するに決まっています。形而上学を学ぶのは大変なことなのです。ですから、労を惜しむような人は、形而上学に手を出すべきではありません。
形而上学の真実は、自己満足の境地から、人を覚醒させます。致命的な過ちから、人を目覚めさせるのです。形而上学を学ぶ人は、その変化を受け入れるべく備えましょう。突然の変化に反発してはいけません。毎日の活動の中で、形而上学以外のことは何も考えられなくなったら、形而上学者になれたということです。
1日24時間、毎日、形而上学のことを考えてください。
神秘学と形而上学を学ぶには、強い忍耐力、それに辛抱強さや我慢強さ、不屈の精神が必要です。さらに、ある程度の知力まで必要です。決して教育や知識の話をしているわけではありません。教育を受けて知識を身に付けると、かえって心の成長の妨げになることがあるのです。
形而上学を修め、神のより崇高な法則を知るためには、広い心で、既成概念の誤りを正さなければなりません。私たちは科学や宗教を通じて、様々な固定観念を身に付けていますが、そうした知識は、形而上学的な観点から見れば、誤りだらけです。
教育によって得られる知識というのは、積み上げられたブロックにすぎません。一方で知力というのは、それらのブロックを体系的に組み立てる、意識的な力です。教育を受けたということは、データや情報を蓄積したということです。
しかし、その情報が正しいかどうかは分かりませんし、そのデータが人生に関係があるのかも分かりません。私たちは、日々、多くの問題や課題に直面します。ですから、毎日の生活にも生かせるような知識が必要です。人類の問題を解決するのは、まさに職人技です。
形而上学の原理を理解するには、知力が必要です。しかし、知力が欠けていても心配は無用です。形而上学の実践を通じて、知能指数・感情知能指数・スピリチュアル知能指数を高められるからです。
神秘学者や形而上学者や神秘主義者の中には、学位を取得するより、神秘学の研究で成果を上げるほうが難しいと断言する人もいます。これはまさに真実です。神秘学の研究では、内面の感覚を明らかにする必要があるからです。より高レベルな振動や、高次における様々な現象を記録しなければなりません。
こうした神秘学の実践や修練には、かなりの時間やエネルギーがかかります。形而上学を学ぶのは、あらゆる人を、真理に目覚めさせるためです。真理のために活動し、真理の中に生き、真理を広めるのです。そうすれば、必ずや神の光に包まれるでしょう。しかし、見返りを求めて行動してはいけません。
霊的な成長を望むなら、時間が必要です。我慢や忍耐、強い集中力も必要です。集中力と言っても、平均的な人はほとんど持っていないような集中力が必要です。精神を自在に操り、完璧に形而上学を実践できるようになるには、一生かかるかもしれません。
でも、ひるんではなりません。イエス大師は「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言っています。形而上学を学ぶ人は皆、この言葉を真剣に受け止めるべきです。形而上学を学ぶ人は忍耐強く、魂が暗黒の力に乗っ取られることのないように、しっかりと注意してください。
形而上学においては、私たちはロウワーセルフをコントロールすることを学びます。自分でコントロールしないと、ロウワーセルフはネガティブな力によって操られてしまいます。
形而上学を学ぶ人は、あらゆる偏見や宗教的な考えを、頭や心から取り除くといいでしょう。時として、形而上学の指導者は、形而上学の概念を説明するために、ひとつの宗教を取り上げるかもしれません。いくつかの宗教の中から、ある特定の宗教の文献を引用するのは、形而上学の概念を具体的に説明するためです。
個人的な事情で特定の宗教を取り上げるわけではありません。他の宗教に悪意があるわけでもありません。ただ便宜上、そうしているのです。私たちは、すべての宗教の本質は真理にあると知っています。
だから、形而上学者は、いつでも、すべての宗教の真理について教え、言及するのです。ここで、ひとつの問題が浮上します。狂信です。過激な信仰というのは、形而上学においても、宗教においても、また人間のあらゆる営みにおいても、許されるものではありません。
狂信とは、原理や思想をひたすら盲目的に信じることです。しかし、それらの思想は大抵、疑わしいものです。過激な信仰というのは、分離主義的で、狭量です。破壊行為を伴うこともあり、絶対に避けるべきです。狂信は、分裂をもたらし、派閥を生み出して、調和を崩します。スピリチュアリティーの大原則“多様性との調和”とは正反対です。暗黒の力は常に“分裂させて征服する”をモットーにしています。
人類は大宇宙の中の小宇宙です。宗教的な面から見れば、人は神を反映しています。人は神の姿に合わせて作られたからです。神は完璧ですから、人間も同じように、霊的な面では完璧です。
人は内面に完璧になるための種を持っています。ですから、内に眠る種が芽生えるようにすればいいのです。完璧になるための神聖な種を育てれば、すべてが可能になります。神聖な種を育てるには、惰性に打ち勝つ必要があります。神の進化の力を借りましょう。