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その他の非常に重要な点は、神託は、その時代、その瞬間における静かな衝動ではないということです。神託は、永遠という不変の文脈における、継続的なものなのです。このことを認識してください。神聖なる法則は、人を選ばず、作用します。

私たちは、神が人類に与えた1つの啓示を永遠に信じ、結果として、私たち自身を人間の思考の中に閉じ込めてしまうかもしれません。もしくは啓示の本質を、永遠に咲き続ける真実だと理解するでしょう。そして、神の真実は、人間の精神的・霊的な発達と等しいと考えるかもしれません。霊的な発達は、あるときは滞るかもしれませんし、別のときには発達を続けるかもしれません。したがって、形而上学者は、日常的に神意に心を通じ合わせておくと良いでしょう。そうすれば、人類の進化に適した、多くの法則や原理を見つけられます。また、霊的な真実を容易に認識し、同化する能力、つまり直感的で精神的な能力を磨くことができるでしょう。



神学の教義は、人を誤った現実の認識や理解に導きます。例えば私たちは、宇宙論や人類学について、教会から非合理的な理論を押し付けられています。しかしながら、私たちは、これらを真理とみなしています。進歩的な現代の人間の思考は、現実的で、事実や経験に基づいた知識を必要としています。しかし、教会はそれに気がつきません。盲目的な信心は現代の流れに合いません。真実に則さぬ信仰は、もはや成熟した魂を引き付けられないのです。教会の指導者たちは、人生の真の目的については触れず、深く考えることもありません。代わりに、指導者たちは、教義の上に信仰を築こうとします。救いのための“唯一の”神の子についての教義や、神罰を強調する教義、愛の神が創ったとされる永遠の地獄についての教義など、うんざりするほどの教義を説くのです。人は、真理や、真理の意味については推測するしかない状態です。しかしながら聖書では、神に与えられた人生の目的、真理とその意味、付随する事柄が明記されています。しかし、キリスト教の信者のほとんどは、これらをあまりに軽視しています。なぜなら肉体に宿った魂は、物理的な世界にいる間、魂の起源や存在の目的を忘れがちなのです。ですから、たとえ無駄に終わったとしても、形而上学者は繰り返し、大衆に人生の目的を喚起するべきです。

以下に、人間が肉体にとどまっている間に果たすべきことについてまとめた言葉を紹介します。他にも多くの言葉が残されていますが、ここでは5つだけ記載します。


1)“あなたたちは神々である”(詩編82:6、ヨハネによる福音書10:34


2)“あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい”(マタイによる福音書5:48


3)“私と父とはひとつである”(ヨハネによる福音書10:30


4)“ただ、神の国を求めなさい”(ルカによる福音書12:31、マタイによる福音書6:33


5)“知恵の初めとして知恵を獲得せよ”(箴言4:7





あなたたちは神々である


誰が詩編を書いたにせよ、その人は、人間の真の姿は神聖なものであると知っていたように思われます。死ぬ運命にある人間という肖像は、単に魂の上っ面にすぎないということも知っていたのでしょう。キリスト教徒は長い間“唯一の”神の子の存在を信じてきました。しかし、この信条は、師イエスその人が、詩編の言葉をパリサイ人や律法学者に繰り返し述べて、反論しています。「コロナ・クラス・レッスン」において、“イエス大師”はこう嘆いています。


“いわゆるキリスト教の最大の弱点の1つは、彼らは私のことを賛美し、ひれ伏し、祈りを唱える対象である神として崇めるのに、私の伝道や福音は、しばしばおろそかにされるという現実だろう…”(1986:27




そして、この“教え”のひとつは、私たち自身が神であると知ることです。そして、私たちは、神の正当で霊的な子どもだと知ることです。すべての無数の世界や領域、次元において、父母と向き合い、表現することが、人類の使命です。


繰り返します。人類愛とは神の表現、あるいは神の部分的な明示です。したがって人類は、神の息子であり娘なのです。私たちが自分自身を低く見るのは、ナザレ人の真理の言葉を軽視することと同じです。聖書からのこの言葉は、人類は、この世において覚醒し、いずれは真理を悟るべきだと訴えています。この真理は、死に至る状況や運命から、人間を解放します。





あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい


私たちは、完全になることは不可能であると信じていますが、これは誤りです。しかし、私たちがもし不完全なら、ナザレ人は上の言葉を残さなかったでしょう。この言葉は、単なる提案としてではなく、戒律として理解するべきです。確かに、一義的には、完全になることは不可能と言えます。なぜなら、完全さとは魂の静的な状態でなく、より高い理想に向かって常に成長し続けたいという欲求だからです。(例えば、完全な人間は、未発達で不完全な神にしかすぎません)しかしながら、神が人類に与えた目標は、すぐにでも達成できます。神は人類に完全を体現するという目標を授けました。実のところ、これは霊魂が再生を繰り返す目的のひとつです。完全さは1度の人生では達成できないのは明らかです。それゆえに、魂は転生しようとするのです。転生することで魂は成長し、イスラム教で言うところの“インサン・カミル”(完全な人間)というレベルに達するのです。完全な人間とは、心理的・霊的な面において、2つの相反する性質を備えています。錬金術師や神秘主義者はこのことを知っていました。そしてカール・ユングがこの原理を再発見したのです。ユングは、社会における心理的な病は、多くの相反する性質が統合されないために発症すると信じました。サイコ・スピリチュアルや精神生物学の観点から簡潔にまとめると、完全さは、男女の陽性が個人の中で調和して結ばれたときに、手に入ります。そして、原理を常に意識し、両性を備えて原理を機能させると、完全になれるでしょう。以下に、男性と女性に関連する、いくつかの要素を記します。





女性


右脳


直感


下垂体


交感神経


共感・理解


潜在意識


想像力


クンダリニー・シャクティ(命のエネルギー)


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男性


左脳


知性


松果体


中枢神経


力・知恵


顕在意識


意志


シヴァ聖霊





不完全とは真実のようにも見えます。しかし、生命は神の表現であり、生命そのものは完全なのです。完全な人間など幻想だと信じることは、宇宙は偽りであると信じることです。とはいえ完全な人間が実在する姿など、めったに見られません。また、完全な人間とは、たいていの場合、肉体を持たずに生きています。それでも完全となるための条件は満たしているのです。神の国の住人たちは、人間の感覚からすれば完全な者たちなのです。



私と父とはひとつである


これは真理です。おそらく、この言葉は人の意識を自然に表したものでしょう。神との内なる統一を肯定し、喚起させる言葉というより、意識の表現と考えられます。ある種の宗教における原理主義者は、人がこの“私と父とはひとつである”という真実を明確に述べることを冒涜と考えるかもしれません。しかし、霊的な見地からすれば、それは誤りです。神からの分離という考えこそ、神への冒涜です。諸悪の根源は、神からの分離にあります。すべての命との統一に意識を向ければ向けるほど、人は霊的に成長します。命はあらゆる意識を進化させます。唯一の神とひとつになり、各々の個性に気づくまで進化するのです。魂が意志を働かすようになると、この進化が加速します。命そのものの力によって、進化が速まるのです。しかしながら、意志はしばしば誤った方向へと向かいます。そうして、人間は目的に対して妥協します。結果として、神や永遠、神の姿を感じられなくなるのです。





ただ、神の国を求めなさい


表面的な世界において、永遠の安らぎや満足感、幸せを求めると、失敗に終わります。家に、人に、そして銀行口座などに物質的なものをたくさん積み上げても、いずれ魂が虚無感を覚えるだけです。私たちの周りにある物はすべて、本質的に、はかない物です。したがって、私たちが霊的に、あるいは精神的、感情的に幸福を得るために、周りの物に依存しても、幸せは長く続きません。カエサルのローマ帝国でも、財宝があふれる王国でも、永遠に価値のあるものなど手に入りません。永遠の価値は内面にあるのです。魂の永続を支えるようなものを求めましょう。物を追求するのではありません。神の国は内面に、そして身近にあります。キリスト教の神学で定められたような場所ではありません。すなわち、天空の楽園でもなく、いつ来るの分からない最後の審判の日に信心深い者だけが入る場所でもありません。天国は精神的な原型として存在するのです。天国は、私たちの意識の中に現れ、実在するはずです。内なる神の国は、内面における現実なのです。人生は私たちが外面的な現実、すなわち俗世にいながら、神の国に気づくよう、導いています。神の国を知った後に、地上で神の国をうまく出現させられるかどうかは、私たち次第です。私たちは豊かさを実現するかもしれませんし、そうでないかもしれません。それでも、聖書で、神がすべての涙をぬぐい去ると約束されていますから、苦しみが過去のものになるのは確かです。神の国がうまく現れるかどうかは、私たちの考え方や生き方にかかっています。意識を高め、集中することが大切です。





知恵の初めとして知恵を獲得せよ




伝説では、ソロモンは人類史上、最も賢い者の1人とされています。上の言葉はその賢者ソロモンの言葉ですから、言葉にいっそうの重みが感じられます。ソロモンは、古代イスラエルの王で、エルサレム神殿を築きました。知恵というのは、2種類に分類されるでしょう。世慣れた人間の生活上の知恵と、賢者の霊的な知恵です。賢者の霊的な知恵は、世慣れた人間の知恵と比べて、視野が広く、あらゆるものを包含しています。知恵とはすなわち、魂を知り、魂を愛し、魂を望むということです。これは、社会に生きる人間に内在する、霊魂の三位一体の一面です。人間の生きる世界で、この三位一体を発揮すれば、日常の体験もうまく同化することができます。ヒンドゥー哲学では、知恵は、いわゆる下界において、ヴィヴェーカ(区別知)とヴァイラーギャ(無執着)を発揮することと定義されています。現実と非現実について区別すること、そして非現実と虚偽から離れることが知恵です。瞑想や内省、祈りは、魂の知恵を覚醒させる基本的な方法です。知識を霊的に理解すれば、知恵が得られます。そして知恵を得れば、悟りも開けます。悟りを開けば、魂は自動的に救済されるでしょう。知恵なくしては、人は愚かな過ちをおかしながら人生を送ることになります。カルマを抱え、サマーラ(輪廻)を繰り返し、下界を生き続ける苦しみを味わうでしょう。したがって知恵は、解放するという性質を持っていると言えます。この解放という性質により、知恵は人を現実へと向けます。知恵は獲得すべき“本質的なもの”と考えられます。



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