

世界でも人生でも、最も確実に起こることは“変化”です。
人々がどう考えようが、何を信じようが、すべては常に変化しています。
私たちが息を吸ったり吐いたりするのも変化ですし、食べたり眠ったりするのも変化です。
成長し、自身の変化を経験するのも変化なのです。
ということで、変化の分かりやすい例えを紹介します。それは“卵”と呼ばれるものです。
お楽しみください。
私は、ストレスを感じたり、自暴自棄になったりすることがよくあります。
何一つ変わっていないと、はっきり自覚するからです。
自分の周りを見回しても、目に映るのはいつも私が見ているものだけです。
同じ家、同じ家具、いつもと変わらぬ請求書の山…すべて同じです。
一生懸命に働いても、変わっているものは何ひとつありません。
先日、私はそのことをもう一度考えてみました。
そして、この美しい大きな金色の卵のことが頭に浮かんだのです。
ほら、わらでできた巣の中に大きな金の卵があります。
卵は何もしません。
形は変わらないし、色も変わりません。
脈を打つわけでもないし、転がり回るわけでもありません。
来る日も来る日も卵を見ていると、卵はそういうもので、
何も起こらないと思うようになり、興味を失うでしょう。
しかし、別の角度から探ってみると、卵の中で大きな変化が起きつつあるのに気付くかもしれません。
新たな生命が生き生きと形づくられ、栄養を吸収して成長しているのです。
たくさんのバラバラな細胞が魚のような形にまとまっていき、さらに複雑な器官を形成していきます。
明確な姿となって、あらゆる部分が形づくられていくのです。
やがて、脈を打ち、呼吸をするようになり、さらに素晴らしく成長するでしょう。
ある日、それがいつなのかは分かりませんが、
長い間全く動かず、自力では動かない物体にしか見えなかった卵が揺れ始めます。
そして、ひびが入り、生まれたばかりの竜の子が姿を現します。
竜の子は初めて翼を広げ、最初の小さな一歩を踏み出します。
そう、変化が起きたのです。
私たちが変化は起きないと思っていても、変化は起きたのです。
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単純さ、忍耐、思いやり:3つの神器
東洋の伝統によると、悟りに至るには3つの神器があるそうです。
単純さ、忍耐、思いやりです。
一見すると、とても簡単な考えのように思えます。
ですが、よく考えれば、すぐに分かるはずです。
こうした基本的な考え方を日常に取り入れると、私たちの人生は穏やかで充実し、
瞑想に満ちた人生になるのです。
この短い記事の中で、教えに満ちた東洋の宗教へ皆さんを誘いましょう。
3つの神器について学び、神器と皆さんがどう関係するのか知ってください。
単純さ
第1の神器は単純さです。思考と行動における単純さを意味します。
作家のトーマス・クリアリーが翻訳した『タオイスト・メディテーション』によると、
単純さは求道者を正しい道に導きます。
彼が言うには、思考の単純さは、しばしば沈黙によってもたらされるのだそうです。
私たちは、沈黙の中でめいめい知恵を得ます。
毎日10~20分の時間を見つけて静かに休んだり瞑想したりすれば、平穏な心に近づくでしょう。
こうした時間を持つことを、もっと真剣に考えませんか?
一方、行動の単純さは、もっと大変です。
ものごとに優先順位をつけて、本当に重要なものを見つけなければなりません。
私なりの対処法を紹介します。
“やることリスト”がいっぱいあって、手が回らなくなってしまった時は、
やらなくても済むことはすべて忘れるように努め、自分のペースを取り戻します。
そして、リストからできるだけ多くのことを外します。
残ったものが、重要度が高いことになります。
重要なことだけに絞り込んだら、あとは楽しみながら、
しっかりと時間をかけて取り組んでいきましょう。
さっそく試してください。どんな項目を今日のリストから外せるでしょうか。
リストから外すと、人生がシンプルになるかもしれません。
あなたは何を重視しますか?
忍耐
第2の神器は忍耐です。そう、忍耐は美徳です。
単純さもそうですが、作業が完了するまでじっくり取り組むのは大変です。
怒っている人を相手に、冷静でいるのも大変です。
私たちはしばしば、他人の姿を映し出す鏡となり、自分自身の分身を引き寄せます。
ここが重要なところで、心の持ちようによっては、良いことも悪いことも引き寄せるのです。
この観点から、イナルヤ・ヴァンザントは、思考を純粋に保つよう呼びかけています。
彼女は、自分にこう言い聞かせるよう告げています。
“自分の身に起きたことは、自分の内面が反映された結果です。
身の回りの出来事をどう解釈するべきでしょうか…それに気付いた時、
理解が深まります”忍耐が必要な状況に直面したら、自分に尋ねてください。
私はポジティブなイメージを周りに映しているだろうか、と。
この考えのもと、私が気に入っている金言があります。
作家のリチャード・カールソンの新作『イージア・ザン・ユー・シンク』に書かれている一節です。
本の中で、彼はこう言っています。
「誰かと一緒にいる時、私たちはその人に最大限の注意を払うよう、一生懸命に努めるべきです。
相手に関心を寄せ、重要な存在として扱うと、相手はあなたに関心を持つでしょう。
一方で、その状況は精神的に負担となる可能性もあります。
次に誰かと会話する時は、それがたわいないおしゃべりであっても、
自分が相手の“かがみ”となっているかどうか、常に意識してください。」
思いやり
第3の神器は思いやりです。私はよく、これを共感にたとえます。
他人になったらどんな感じなのか、直接知ることはできません。
でも、話を聞いてほしいという欲求を尊重することはできます。
衝突や怒りは、えてして助けを求める叫びだったりするものです。
日々思いやりを持つように努めて、周りの様子を知っておかなければなりません。
自分自身が、より開かれた“平和の船”になると、周りもあなたに助けを求めるでしょう。
私たちの身に起こる出来事には、自分にとって治癒すべきものが映し出されています。
トーマス・クリアリーは、私たちは常に正直に行動するべきだということを、思い出させてくれます。
彼は『タオイスト・メディテーション』の中で、「正直でいれば、良いものを選び、
しっかり手中に収めておくことができるでしょう」と述べています。
思いやりも、単純さと同じように、自分にとって最も重要なものを決めなければなりません。
3つの神器すべてに通ずる宿命的テーマです。私は、日々意識を高め、悟りを開くよう努めています。
誠意を持って、人の役に立てるような道を探しているのです。
今日は、魂が皆さんを通してどのように働きかけているか学んでください。
また、皆さんは、他人や世界にとって“平和の船”だということを忘れないでください。
私が思うに、信頼されやすくなって誠意を受け入れれば受け入れるほど、
思いやりのある行いができるようになって、日増しに悟りに近づくものです。
結論
こうした前向きな考えで皆さんの人生が明るくなり、平穏がもたらされることが、私の願いです。
皆さんが毎日受け取っているメッセージに気付いてください。
皆さんが出会う人たちや皆さんの経験のことです。
こんな簡単な考えで、人生が飛躍的に豊かになるなんて、素晴らしいことです。
さっそく取り掛かって意識しましょう。
3つの神器を大切にすれば、暗闇の中でも光を運んでくれるはずです。
ローラ・M・ターナーさんは、フィットネス・インストラクター、フィットネス・トレーナー、
ナチュラル・ヘルス・プラクティショナーとして15年の経験があるベテランです。
創造力、自然療法、フィットネスの重要性について、
自身のウェブサイト(http://www.body-and-beauty.com)で呼びかけたり情報を提供したりしています。
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オンライン雑誌『ニュー・ボディ・ニュース』と『ウェルネス・レター』は以下のウェブサイトで無料で購読できます。http://www.new-body-news.com
ただの…
私は最近、ある傾向に気付きました。
私たちが毎月の支払いをするために就いている職業の前に、ある言葉を入れるのです。
重要な言葉ではありませんし、そもそも、そこに入れる必要もありません。
それなのに、最近よく使われています。私が言っている、
どうでもいい言葉というのは、“ただの”です。皆さん自身でも周りの人でもいいのですが、
肩書きや職業を言う時に、この言葉を言っていないか、思い出してみてください。
例えば、「私は“ただの”専業主婦です」とか「私は“ただの”家具運搬業者です」などです。
こうした現象を目にすると、何年くらい高等教育を受ければ、
“ただの”が付かない職業や肩書が得られるのだろうと思ってしまいます。
それに、話のついでですが、犯罪のプロまで、この暗黙のルールに従うとしたら、
どうなってしまうのでしょう。
つまり、彼らは「いいえ、私は“ただの”逃走中の運転手です」と言わなければならないのでしょうか?
“ただの”宝石泥棒や、“ただの”銀行強盗はどうでしょう?
それとも、取り上げるほどのことではない、馬鹿げた現象にすぎないのでしょうか。
こうした馬鹿げた現象をちょっと調べてみると、
言葉の付け足しはすべて自己中心的な考えから発生していることが分かります。
いわゆる「“他の”優秀な方」というのもそうです。
“他の”をまとめて、“周りの”となることもあります。
つまらない仕事をしている自分よりも、“周りの”ほうが優れているから、
罰としてこの言葉を入れなければならないという考えです。
調査中に、言葉を付け足すのは自尊心の低さによるのではないかと思いました。
自尊心が低いために、自分に罰を課したり、他人の言うとおりになってしまったりするのです。
給料のいい特定の仕事には、言葉を付け足す必要がないということが、何よりの証明です。
ですが、これは不変のルールではないので、そもそもの暗黙の付け足しと同様、
“付け足しの免除”にも色々と特別な条件があるようです。
日常的に行われている暗黙の付け足しや、その使い方の調査に取り組みましたが、
それでも疑問が残りました。
ガンの専門医が「“ただの”医者です」と自己紹介したら、
その医者に手術して欲しいという人はいるでしょうか?
それと、最近、日曜の朝に思ったのですが、牧師が「“ただの”牧師です」と自己紹介したら、
それでも教会に参列するでしょうか?
夜中の2時に“ただの”警察官が薄暗い脇道にいたら、どうでしょう?
炎上中のビルから避難する時に、“ただの”消防士にはしごで下ろしてもらいたいでしょうか?
最後になりますが、私はかねてより、
健康な若い男女が“ただの”大統領の命令に従うのだろうかと、ずっと思っていました。
こうやって、言葉の付け足しについての暗黙のルールや条件を解明すればするほど、
どれも馬鹿げたことなのかが分かりました。言葉の付け足しは、もう無くさなければなりません。
これは、私たちの自尊心の低さからきているのです。
「“ただの”車の販売員です」とか「“ただの”自宅学習を実践する母親です」などという馬鹿なことを、何回子供に聞かせてきたことでしょう。
馬鹿げているように聞こえますが、そもそも、言葉を付け足すことの方がずっと馬鹿げています。
自分を少し過大評価している人がこの言葉の付け足しをしたら、そのまま返してやります!
付け足しは必要ないものですから、無くなってもどうということはありません。
あんな下らない言葉がなくても、立派に生きていけます。
“ただの”人などいないのです。
この言葉をもっと具体的で適切なものに置き換えてみたらどうでしょう。
例えば、“下級な”とか“取るに足りない”とか“無能な”などです。
そうすれば、言葉の付け足しは、すべて止めざるを得なくなるでしょう。
私たちは今、“差別語禁止”に関わる領域に足を踏み入れようとしていますが、
決して望んでいるわけではありません!
“ただの”という言葉の付け足しを止めるうちに、私たちは再び、
重要で必要とされる存在になりました。愛情や友情を受けるに値する人間になったのです!
“ただの”を付けないことで、誰もがいきなり昇進するようなものです。
さあ、これでまた“地に足を着けて仕事を続けること”に誇りを持てるようになります!
テレサ・トゥグッドさんは、コロラド州デンバーにあるOLIN電子出版社(http://olin.tk)の常務取締役です。

