
何かわからない 沢山のネガティブな感情がわいてきて
阿蘇から戻ってきた私を圧迫していた。
でも 人だから苦しいこともある。。。
多分人からくるのネガティブの量が多いのかな?・・・
一週間気管支炎をわずらい、声が出なくなって寝込んでしまった・・。
連休の初日23日 夜寝る前からしんどいと思っていたが
早朝、咳と息苦しさで 目覚めた。
これは無理・・と反射的に思い
病院はどこも休みだが、定期的に通ってる
羽曳野の喘息、アレルギーの専門病院に電話をかけ 速攻タクシーで向かった。
お医者様が肺炎になりかかってるねという
好酸球性肺炎ならステロイド入りの点滴ですぐよくなるのだが
真性の肺炎なら喘息持ちには命取り・・。
ステロイド入り吸入と 点滴等でまずは収めてもらった
少し楽になったので帰ってきて 寝ていた。ひたすら・・・
24日もひたすら寝ていて 大分よくなっていた。
昨日25日お弟子さんのY子ちゃんと京都で会いましょうと約束していたので
つらいが、Y子ちゃんが車だというので、何とか行くことにした。
午前中、これまたお客さんのmちゃんと
以前ワークショップで知り合ったAくん
この二人は 偶然同じ苗字なのでダブルNさんと呼ぶが 。。
偶然ダブルNさんのお二人が、京都でデートということになっていて
ちょっと顔合わせしましょうということになり会うことに・・
一緒に 蚕の社・・といわれている
木嶋神社(木島坐天照御魂神社)に行きましょうと誘い、
車で連れて行って頂きました。
前から 秦氏に関してはいろいろ調べたかったのもあります。
純粋な神社の香りがします。 正統派・・という感じです。
秦氏が失われた10氏族のルーツを持つ民族の一つと
確認したいのもありました。
良き気でした。
ネットでは 私が知りたいことが このように書かれています。
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この神社は一般的に蚕の社と呼ばれておりますが、本来は延喜式内社木島神社(正称は木島坐天照御魂神
社このしまにますあまてるみたま)といい、古代へのタイムトンネル「太秦」の地にあります。
蚕の社と呼ばれるのは、摂社の・養蚕こがい神社にちなんだ呼び名で、平安京(エルサレム)建設プロジェクトに
尽力した秦始皇帝の後裔と称する融通王(弓月君ユンズノキミ)を始祖とする渡来人「秦氏」とのゆかりは深い。「続
日本紀」によると、既に木島神の名前は大宝元年(701)に見えるので、それ以前に祭祀されていたものと思われ
創建は古い。
本来の御祭神については判らないとのことだが、現在は「天之御中主神」「邇邇藝命」「穂々手見命」「鵜葦草葦不合命」としており、もとは「天火明あめのあかりの命」を主神とする説とがある。社名の御魂は(ミムスビ)とも読み、「モノを産す」という意味で、いわゆる造化の神として古代の住民が五穀豊穣を祈ったものでしょう。本殿の右にある養蚕神社が一般に「蚕の社」と呼ばれ、蚕の神を祀っている。養蚕・機織の業を司どった同地方の秦氏に因んで祀られたものと思われ、社前に「亨保六年(1721)銘の常夜灯には、磐座宮と刻まれているので、松尾神社(建造物以前より自然崇拝あり)と同様に古代よりこの地にには磐座信仰があったとみられる。
境内には、他に三井家の祖・越後守高安を祀る顕あき名神社、この付近で自殺した承久ノ乱に後鳥羽上皇方だった三浦胤義父子を祀る魂鎮神社や三十八所神社、白滝稲荷社、もと木島里このしまのさとにあった椿丘神社などの末社がある。
その蚕の社のなかでも興味を引くのは、三つ鳥居(三柱みはしら鳥居)である。この鳥居は京都三鳥居のひとつと
されており、三本の柱を三つの島木と貫(ぬき)でつないだ神明型の石鳥居で、真ん中には組石の神座かみくらが作ら
れ、その狭い空間が凝縮された聖域として三方から拝めるようになっている。創建年代も不明、何の為に建てられ
たかも不明で、摩訶不思議だが石柱の銘から天保二年(1831)に再興されたもので、以前は三ツ組の木柱の鳥
居だったという。もともと鳥居の原型は、古代インドの塔を囲む垣の門「トラーナ」説、中国の宮城説、陵墓の前に
建てる標柱「華表かひょう」説、朝鮮やボルネオ地方の「門」由来説などさまざまあるが、いまはまだ謎のままである
***三つ鳥居→秦氏→ハタ→ハダ→イヤハダ→ユダヤ→と解明できるか?***
この鳥居の泉(組石の神座)から湧水が流れ出て境内に「元糺もとただす」の池を作っているが、この池は清らかな
湧水が年中たえることなく、行場とされたこともあったという。日ユ同祖論者の言では、イスラエルの禊の池とまっ
たく同じとか。
「元糺」という呼称が語るように、下鴨神社の「糺の森」の名はここから移したの事。元糺とは、それを意味して
おり、賀茂氏と秦氏の関係が浅からぬことを物語っている。本殿の西にある三方正面の石鳥居にも「元糺太神」
の刻銘がある。
もともと蚕ノ社(木島神社)は、祈雨の神として古くから信仰され、平安京造営以後には朝廷から祈雨の奉幣が
行なわれ、貞観年間に正五位、長久年間には正一位が授けられている。
平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』巻二には、
金の御岳は一天下、金剛蔵王釈迦弥勒、稲荷も八幡も木島も、人の参らぬ時ぞなき、
太秦の薬師がもとへ行く麿を、しきりにとどむる木の島の神
と、伏見稲荷や石清水八幡、太秦(広隆寺)の薬師とならぶ木島神社の賑いぶりが歌われている。木島神社の
周辺の村里も「木島里」と呼ばれ、承久の乱で後鳥羽帝に味方して敗れた三浦胤義父子は、ここ「西山木島」ま
で逃れて神社の境内に隠れたが、武運尽き自害して果て郎党が社に火をかけたという。境内の左手には三浦父
子を肥った末社がある。そののちもいくたびか戦火にかかって焼失したが、享保年間に三つ鳥居の修復がなされ
たと伝えられる。
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夏の土用の丑の日に手足を浸すと、諸病をまぬがれるという聖なる泉、神秘の三つ鳥居
(六芒星?)に加護され真のユダヤが最も大事にしていたこの泉も、時々参拝に行くけれ
ども、今は枯れていることの方が多い。
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水はかれてましたね。
こちらの紋は 下賀茂と同じでしたから
賀茂氏と秦の関係は古いのでしょう・・。
賀茂氏は宇佐神宮に関係がありましたね。
宇佐と秦氏をもう少し洗ってみる必要がありそうです。
なかなか澄んだよい気でした。
その後松尾大社に行きました。
ちょうど七五三の巫女舞が始まるところで 綺麗な澄んだ気とともに
よいエネルギーも頂いてきました。
その後 お弟子のY子ちゃんと会いました。
「先生 なんかいっぱい先生のところに 来ているよね・・
だから苦しかったんでしょう」って
私のために 祈ってくれました。
気は相変わらず 枯渇せずに出ていますが
私が 元気ではないから 霊や人の感情を
うまくガードできないのでしょうね。
楽しく 嬉しくいられるようでないと パワーは出てこないように思います。
久々に すごいものと 対峙したので
ずいぶんパワー使ったのでしょう。
チャンネルを 霊界にあわせると とめどなくなりますから
もうそこからは 意識的に離れるようにいたします。
船井さんの本にも出てましたが黄泉の国のものと
チャンネルを合わせることをしてると霊体が汚れますと・・
それが咳になったりしてきます。・・と
理由がわかったので もう負けません。
元気になります。
体調もかなりよくなりました。
あとは自然回復を 待つばかりです。
お仕事も 全快するまで 待っていただいてます。
ご迷惑おかけしました。
復活します。 祈りと 喜びと 楽しさで 生きていきます。
さーて がんばろっと!!