死別後の悲嘆 | ぶーぶーとダディ

海老蔵さんの「人ってこんなになるのか」という言葉、「死別後のグリーフ」を的確に言い表した一言だとおもいます。

私も、実際にその立場にたって驚愕しました。これほどの圧倒的な感情が存在したのかと震え上がりました。肉体的な痛みを伴ってしまうほどの悲しみ、恐怖、苦しみ、わけがわからないほどの喪失感、底のない穴に落ちてしまったかの様な絶望・・・・人生が根底から覆され、激しくゆさぶりをかけられ、自分と言う人間が崩壊しました。ダディの過酷すぎる病を知ったときも、末期で治療法さえないと知ったときも、死別の苦しみに比べたら全然耐えうるレベルだったとさえ思えます。生きている間はお互いが支えだったし、明日も会えると言う希望があったから。亡くなった瞬間、足元から世界が崩れ落ちた様な感覚で、全身から血の気が引いていくのがわかりました。よく死別は究極の喪失体験と言われますが、経験してみて骨の髄まで理解しました。


どんなに聡明で、冷静で、論理的な思考を持つ、例えば、大学教授のような人でさえも、適応不可能で、太刀打ちできなくなると言われているのが死別後の悲嘆です。海老蔵さんが、どんなに精神力のある役者さんでも、厳しいスケジュールのなかにいらしても、最愛の人をなくした悲しみ、苦しみは軽減されることはなく、また、乗り越える類いのものでもないと思います。たくさんの人から、「悲しんでいると故人も悲しむよ」とか、「子供のために笑って」とか、悲しみを乗り越えろ」とか、とにかく色々と声かけはあると思いますが、実際は、悲しみと共に生きることを肯定して、受け入れない限りは難しい。海老蔵さんと、お子さんたちが、悲しんだり苦しんだりする自分自身の心を大切に思えていますように。


海老蔵さんも綴っておられる様に、死別後何よりも一番辛かったことは、自分の苦しみよりも、将来を絶たれてしまったダディの想いを背負ったことでした。生きたいと願い続け、闘い続けた末の突然の別れだったので、ダディの思いが全部丸々私の中に残りました。共に闘ってきた妻として、その思いを無視したり、置き去りにすることは出来るはずもありませんでしたし、絶対に忘れたくないとも思いました。今でも大切に心の奥にあります。精一杯の愛情です。今、海老蔵さんが経験されている痛みや苦しみは、愛情と表裏一体。その苦しみにさえも、忘れたくないとすがりつきたくなる日がきっと訪れます。自分の意思とは間逆に、記憶が薄れていく悲しさは中々究極です。時の流れは悲しみを癒してくれるというよりは、じわじわと記憶を奪う残酷な部分の方が強いんじゃないかと感じることもあります。声も、匂いも、温かな手も、必死で思い出そうとしても、どんどん薄れていって、遠い記憶に変わっていく。前向きに捉えれば人間は前を向いて生きていくようにプログラムされているということなのかもしれませんが、かなり辛かったですし、今もきついなと感じることがあります。だけど、何があろうと人生は続いていくのだからしかたありません。

海老蔵さんは、ご自身のブログで胸中の苦しみを赤裸々に吐露されていますが、想像が及ばないことを否定したり、批判したりするのではなく、周囲の人も、読者の人も、マスコミの人たちも、海老蔵さんがご自身のペースで、一歩一歩を進まれる過程を、見守り続けてあげられるような社会であってほしいなと願います。