マリー・ローランサン 『鎮静剤』

 

鎮 静 剤

              マリー・ローランサン

                  堀口大學 訳

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。

悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。

病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。

捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。

よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。

追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。

死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

 

高田渡さんの歌で有名です。

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パステル色の美しい女性達を描いた画家のマリー・ローランサンは、1883年にパリのお針女の私生児として生を受けました。

19歳の時、磁器の絵付けの講習を受け始め、やがて画塾アカデミーアンベールに通い、そこでピカソと共にキュビスムを創始した芸術家、ジョルジュ・ブラックと出会います。

ブラックのひきあいで、モンマルトルのピカソのアトリエ、バトー・ラヴォワール(洗濯船)に出入りするようになり、そこで詩人アポリネールと出会い、運命的な恋に落ちます。

この時ローランサンは22歳、アポリネールは27歳でした。

けれどローランサンはやがて「洗濯船」のメンバーたちが熱心に描いていた キュビズムの絵に違和感を覚えるようになります。そして一つの事件が起こったのをきっかけに、アポリネールとの6年間の恋が終わります。

1911年8月22日ルーブル美術館から名画「モナ・リザ」が盗まれるという事件が起こり、その捜査が行われていた中で、アポリネールの秘書のピエレが、ルーブル美術館から彫像を盗み出して、アパートに隠していたということが発覚したのです。

アポリネールは共犯を疑われ、1週間拘留され、結局ピエレも含めて、無実だと分ります。

けれどそれがもとで、嫉妬深くなったアポリネールに、ローランサンはついてゆけなくなり、翌年、苦しみながらも彼の元を去ります。

けれど2人は別れた後も文通を続けます。

別れから5年の月日が経ち、ローランサンは結婚し、アポリネールは軍隊に入隊し、大怪我をした後、ローランサンの知らない女性と結婚してしまいます。

ローランサンは深く傷つきます。

しかもその年のうちに、アポリネールはスペイン風邪のため、この世を去ってしまうのです。

出会いから11年、アポリネールは38歳の若さでした。

アポリネールの死から38年後、ローランサンはパリで、心臓発作のため、亡くなります。

埋葬は、ローランサンの遺志通りにされました。

白い衣装に赤いバラを手に、そしてアポリネールからの手紙を胸の上に置いて・・・。

 

ローランサンが詩を書き始めたのは、1914年に第一次世界大戦が始まり、結婚したばかりの夫でドイツ人画家、オットー・フォン・ヴェッチェンとスペインに亡命した時でした。

スペインに彼女の居場所はなく、描いた絵も少なくなります。

そして、届くアポリネールの結婚と死の知らせ。

「鎮静剤」はそんな時に書き上げられました。

詩の中の哀れな女達。

そして最後のもっとも“哀れな女”は、ローランサン自身だったのでしょう。

けれどその時の彼女は知りえなかったのかもしれませんが、彼女はもっとも哀れな「忘れられた女」ではありませんでした。

アポリネールがスペイン風邪のため亡くなった時、その枕元にはローランサンが描いた名作「アポリネールと友人達」が架けられていたのです。