「数寄屋橋~君の名はゴジラ」川の成り立ちVol.42 外濠川その3 | 黒式部の怨念日記

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今回の外濠川(その3)は、数寄屋橋に一点集中である。空中写真(外濠川全体の空中写真中、該当箇所をトリミングしたもの)がコレである。中央付近で右上から左下に伸びているのが外濠川(現在の東京高速道路)であり、それに交叉する白いラインが晴海通りであり、その中央部分で外濠川の真上に位置するのが数寄屋橋である。左のエリアで右上から左下に伸びているのは鉄道線路である。

 

 

国土地理院ウェブサイト(https://service.gsi.go.jp/map-photos/app/map?search=photo&ratio=26&limit=200&search_date_from=0000&search_date_to=1950&color_type_ids=1%2C2&scale_from=0&scale_to=99999999&city_code=13101&lon_min=139.66744660998725&lon_max=139.89135697140262&lat_min=35.66224230917382&lat_max=35.711145666816876#13/35.68059543199999/139.764690846)の画像をトリミング加工し、文字を加入した。

 

 

「その2」では外堀通りを南下し、銀座西三丁目交差点まで来た。次の交差点は数寄屋橋交差点であり、交叉するのは晴海通りである。ここはスクランブル交差点である。

 

 

写真中央に見える橋は、東京高速道路を乗せる新数寄屋橋(晴海通りによって分断された商業施設の建物に代わって東京高速道路を担いでいる)。下をくぐるのは晴海通りである。くぐった先にJRのガードが豆粒ほどに写っている。外堀通りとぴったり並走してきた東京高速道路(外濠川跡)だが、少し前から向きを南西に変えているから、真南を向く外堀通りよりも既にだいぶ西側にずれている。右端にとんがり帽子の数寄屋橋交番があり(待ち合わせによく指定されるという。指名手配中の人は指定しずらいだろう)、東京高速道路(外濠川跡)を挟んだ奥にあるのがマリオンである。

 

外濠川があった頃は、新数寄屋橋を含む東京高速道路のルートが川で、その上に架かっていたのが数寄屋橋である。新数寄屋橋が架かる地点を数寄屋橋が跨いでいた格好だから、二つの橋は直角に交差する位置にあったことになる。

 

その数寄屋橋が現存していた頃の写真である。
 

(ウィキペディアから。もともとパブリック・ドメイン)

 

前掲のスクランブル交差点の写真から45度回転し、南(下流)から撮った写真である(推測)。数寄屋橋の上を晴海通りが通過している。橋の向こう側(上流)で外濠川が向きを南西に変えたことが分かる。数寄屋橋の袂にある建物は、朝日新聞の本社家屋である。現在マリオンが建っている場所であり、江戸時代には数寄屋橋門(見附)があった場所である。1871年に写真が撮られた時点では数寄屋橋門がまだ残っている。

 

(ウィキペディアから。もともとパブリック・ドメイン)

 

「その2」で、有楽町駅前の広場にその石碑を見た南町奉行所はその門内にあったということだから、数寄屋橋門は、数寄屋橋から現在の有楽町駅辺りにかけて存在したわけである。

 

現代に戻ろう。次の写真で左右に走っているのは(渡る前の)晴海通り。奥(南)に伸びているのは外堀通りである。歩行者がスクランブルで渡っていたのはこの交差点で、この晴海通りを右に行くとその上を新数寄屋橋が通過するわけである。

 

 

左側に見える建物は旧ソニービル。「旧」というくらいだから建て替えたのである。諸行無常。光陰矢のごとし。なんでも変わってしまう世の中である。近くにあった「プランタン銀座」もできたと思ったら営業終了だし。

 

その新数寄屋橋の前後で東京高速道路の商業施設はNISHIGINZAから銀座ファイブに替わる。

 

 

新数寄屋橋が晴海通りを渡りきった地点には数寄屋橋公園がある。

 

 

そこに「数寄屋橋ここに在りき」と彫った石碑がある。

 

 

彫文の名義人は菊田一夫。「君の名」(ラジオドラマ)の脚本家である。「君の名」は、男女が東京大空襲の際に数寄屋橋で運命的な出会いをし、半年後に同じ場所で再会を約束するも果たせなかったという話である(前掲の白黒写真に写っていた立派な橋がまさにドラマの舞台となった数寄屋橋である)。ドラマの放送時間中は銭湯の女湯ががら空きになったという。その後、朝ドラがこのドラマをリメイクしたが(主演=鈴木京香)、朝ドラフリークである私がなんとしたことか見てなかった。最近はストーリーをまったく異にするアニメの「君の名は。」があると聞く。聖地も飛騨地方だと言う。

 

この公園には、一目見て岡本太郎と分かるモニュメントがある。

 

「若い時計台」という作品である。

 

数寄屋橋は、初代ゴジラと1984年版ゴジラが通った場所としても有名である。どちらも、ゴジラは海から上陸し、晴海通りを歩いて数寄屋橋に来た。だが、この二作品の間には決定的な環境の変化がある。すなわち、初代ゴジラが通ったときは外濠川と数寄屋橋が現存したが、1984年版ゴジラのときは既になくなっていた。他にも、様々な違いがある。細かく見てみよう。

 

初代ゴジラは当時現存した数寄屋橋を渡った(正確に言うと、数寄屋橋の横の川を歩いて渡った。なぜなら、ゴジラが通過する際水しぶきが上がっているし、数寄屋橋がゴジラの体重を支えられたとは思えないからである)。傍らの朝日新聞社屋にパンチや体当たりを加えてないから社屋は助かった思った次の瞬間、尻尾がぶるんと舞って一撃を加えている。国鉄(JRの前身)の線路上には運転を中止した車両があるが、高架線路もろともゴジラに破壊される。

 

1984年版ゴジラのときは、既に外濠川と数寄屋橋はなく、東京高速道路(と新数寄屋橋)がゴジラの進路にあったところ、飛んで火に入る夏の虫のごとくゴジラの目の前を飛ぶヘリコプター(危機意識なさすぎ)がゴジラの吐く熱線によって墜落し、機体が東京高速道路の上に落ち、渋滞で身動きがとれなくなっていた車両が次々と引火して道路架線上は火の海になった。マリオンはゴジラの格好の攻撃対象となった。その目の前を通過する新幹線はゴジラのおもちゃになった(緊急停止しないなんて信じられない。国鉄民営化は1987年だから、この頃はまだ国鉄である)。

 

かように数寄屋橋に縁の深かったゴジラだから、近くにゴジラ像がある。

 

 

新宿の像(ヘッドだけ)に比べるとなにやら小粒である。頭が小さいシルエットは最近のゴジラの特徴であり、初代はもとより1984年版ともだいぶ印象が異なる。

 

既に外堀通りと東京高速道路は袂を分かった。外濠川の流路を辿るのだからここから進むべきは東京高速道路沿いの小径である(「その4」に続く)。

 

今回のタイトル「君の名はゴジラ」が誤解を生むタイトルであることは承知している。だが、間に「、」を入れても同様の誤解が残る。「数寄屋橋~「君の名は」「ゴジラ」」とすれば誤解は生まないだろうが、括弧内括弧は見苦しい。