2009.10.26


一、

真理を求めるから、しんきくさくなるのではなかろうか。

クソリアリズムと真理を置く次元を異にするだけで依然として
真理を求めようとする演劇のことを私は、
メタクソリアリズムと名付けた。

真理という言葉がカビ臭ければ、リアリティと言い換えて差し支えない。
物語の外側で起こるにせよ内側で起こるにせよ、
あるストレスをリアリティと呼ぶことがあるかと思う。

ストレスと私がここで呼ぶものとはたとえば、
しっぽを挟んだ洗濯ばさみがハツカネズミにもたらすそれである。
伝統に倣えば、葛藤というやつ。

これは、あくまで演者に こわばり が生じる為にあるのであって、
リアリティの為にあるのではないと思う。

(註:こわばりとはここで、演者の下手を表しているのではない。反復・執着・おこつき……人が物の印象を与える場合の全てを指す……とここではざっくり済ませておく)

この先は、こんど何かの劇評を書くに当たってまとまるかと思う。



一、

先日拝見した『私たち死んだ者が目覚めたら』について。
あの狂ったモデルさんは、最終幕後半のノーラよろしく鳥の様でなければならないと思うのだが、あれを演じていた俳優さんはどこからどう見ても混じりっけなしの哺乳類であった。少しねじ曲げて分かりよく云えば、庶民的でお人好しで人肌のあたたかさ、なのである。
ノーラとヘルメルとは他人である。これはパパとの関係と並べてみると鋭い対比を見せている。
また、モデルさんと彫刻家さんとはかつて、頑なに男女の関係になることを忌避した。
ノーラとヘルメルとの関係は、鳥の親子なのである(親子丼ではない)。身内であるかどうかは分からないがともかく大きいものにヨチヨチついてゆく、卵生の感じなのである。
彫刻家はかつてモデルを抱くことを恐れたが、これもモデルを鳥としておくか獣とするかというところに関係している様に思う。
奥さん役の衣装が子宮みたいだったのも象徴的で、あれは胎生動物なのである。
卵生と胎生の対比を鮮やかに出すには女性のキャスティングが逆であったというのが、私の主たる感想であった。
鳥類の感じを出せるのは、片岡先生の方だと思った。