大好きな季節が来た。
残暑はまだまだ残っているが、徐々に季節が移り変わっているのを朝の風が教えてくれる。
木々の葉も真夏に比べると緑が鮮彩さを欠いてきて微かに黄みを帯びてくる。一日一日秋に近づいていく、そんな季節が寿恵は好きだ。
ドアを閉め、マンションの共用廊下を歩きエレベーターホールに到着した。下向きのボタンを押した瞬間、不安になった。鍵閉めたかな…。
部屋に戻り鍵を確かめる。一回開けてまたかけ直すと、再度エレベーターホールへ。エレベーターは階下に降りていて上がってくるのを待っていたが、そのまま高層階に上がってしまった。
待っているうちにまた不安がぶり返してくる。さっき鍵閉め直した時、逆に間違って開けてしまったかもしれない。
けど、もう行かなきゃ。この後のエレベーターだといつもの電車に間に合わない。後の電車だと遅刻ではないがあまりにもぎりぎりだ。
考えているうちにエレベーターが到着した。不安感を必死に打ち消して我慢して乗り込んだ。
一階に着いた頃には不安感はさらに強くなっていた。そういえば寝室のベッド横の窓は閉めたっけ? 雨予報なのに網戸のままにしているかも。開いたままだと布団が濡れてしまう。
不安に勝てず寿恵は部屋に戻った。窓も玄関の鍵も閉まっていて、慌てて部屋を出る。
階上から降りてくるエレベーターに乗り込むと、そこには職場の人気者小泉君が乗っていた。
「小泉君、ここに住んでるの? 前から?」
「ううん。先週越して来たばかり」
挨拶程度に話しながら寿恵は考えた。これは同僚の温子が騒ぐかもしれない。早めに教えてあげなきゃ。
一階に着いて、小泉君と一緒に駅に向かいかけたが、不安感はより強くなって戻ってきた。キッチンの火は消したかしら。さっき寝室の窓を確認した時に鍵を外してしまったかも。そこから泥棒が入るかもしれない。
馬鹿げているとは思うが、寿恵の頭からそんな妄想が消えない。
小泉君が心配そうに話しかけてきた。
「顔色悪いけど大丈夫?」
「うん、大丈夫。でも忘れ物したから一回戻る」
「この後の電車だと間に合わないよ」
「うん、分かってる。でもすごく重要な忘れ物なの。じゃあね」
結局その後何度もそんなことを繰り返し、仕事を休むことになってしまった。
実は寿恵にとって、今回初めてのことでなく。何度かこの症状は出ている。寿恵は精神科のクリニックを訪れた。
それから10日後、職場前にある公園のベンチで寿恵は温子を待っていた。
「ごめんごめん。待った?」
温子が来ると二人で歩き始める。行き先は、会社近くに新しく出来た居酒屋だ。
「へえ。おしゃれ」
ぐるっと店内を見渡して温子が呟く。
メニューリストも洒落ている。多数揃う日本酒から寿恵は辛口を選ぶ。甘ったるいのは苦手だ。
「で。カミングアウトって何?」
単刀直入な温子の物言いに促され、寿恵は告げる。
「ひとつめ。私、強迫症らしいの」
強迫症、または強迫性障害とは、強迫観念が消せず不安感などから、それを打ち消すための行為を繰り返してしまい日常生活に支障が出てしまう病気のことだ。
よく知られているのは潔癖強迫による長時間の手洗いがやめられない障害。
「あら。寿恵って潔癖症だったっけ」温子が軽く聞き返してくる。
「ううん。潔癖症とは違うの。潔癖強迫神経症もあるけど、潔癖症とはまた違うし。私のは確認脅迫。」
「確認?」
「朝家から出た後、鍵閉めたかな、火を消したかなって気になって引き返してしまうの。それで昨日は結局休んだし、今日は午後からの出勤になってしまって。」
「そうなんだ。で、もうひとつは?」
「小泉君と一緒のマンションに住んでる」
温子の顔色が変わる。
「小泉君と一緒にマンションに住んでるってどういうこと?」
温子の変な聞き間違いに、寿恵はなんだか気分が軽くなった。
そこに辛口の日本酒と、味噌をのせたピーマンのおつまみが運ばれてきた。
「ま、飲も」
店を出ると星が輝いていた。
もうすぐ満月だ。
ほろ酔いの二人に秋の宵の風が吹く