電車が止まるほどではなかったが、朝から激しい雨だった。


傘をさしていても足元はずぶ濡れになってしまい、オフィスの玄関先でタオルでズボンと靴を拭いているとボスこと東谷さんが近づいてきた。


「明日から新しくアルバイトの子が来るから、よろしく頼むね。いろいろ教えてあげて。」

そう言われて、すばるは不安になった。


自分自身まだまだ何もできない。アルバイトの子に仕事を教えてあげることなんて自分にできるだろうか。


新人バイトが優秀で、その子だけで十分自分がやっている雑用ができてしまうかも。お役御免になったらどうしよう。


みんな良くしてくれるけれど、新人さんが来ることで自分の出来の悪さが露呈して、みんなに冷たくされるんじゃないか。


そんなことをぐずぐずと考える。考え過ぎは、すばるの悪い癖だ。


それに気づいたのか、北山さんが悪戯っぽい笑みを浮かべながら、横に来た。

「すばる君、このキャラクターの企画書、お願いしていい?」


「おいおい、北山。すばる君にはこっちのデザイン案を週末までにやってもらわなきゃ、なのに。」

東谷さんが異論を唱える。


「鈴井社長は細かいから、すばる君の企画書じゃなきゃ通らないんだよ。今日3時に持って行きたいんだ。」

北山さんが言う。


「仕方ないなあ。すばる君、どっちもいける? あれもこれも頼んじゃって申し訳ない」

「いえ。大丈夫です」


すばるが返事をすると、東谷さんは満足気に微笑んだ。

「すばる君が来てくれたおかげで、うちの仕事より増えたからねえ」


すばるは気分が明るくなった。北山さんはまるで心を読めるようだ。すばるが思い悩んでいると、いつもさりげなく元気づけてくれる。きっと、こういう会話の流れになることは想定内に違いない。



翌朝。前日の雨が嘘のように太陽が輝いていた。まだ梅雨の晴れ間で蒸し暑かったが、すばるの気分は軽かった。


駅からオフィスに向かう道、小さな庭のある一戸建ての前ですばるはふと立ち止まった。吹く風に感じた夏の香り。大きなアフリカンマリーゴールドが咲いている。花の香りではなく、水分を含んだ土の香りだが、なぜか夏を連想した。


顔を前に向けると、なぜか数歩前を歩いていた若い女性も立ち止まっている。急に振り返ると目があった。彼女が会釈をしてくれたので、すばるもなんとなく会釈を返した。


すばるの方が少し足が速い。女性を追い抜いてオフィスへ急ぐ。


少し遅れて彼女もオフィスに到着した。

「あ、風子ちゃんだよね?」

東谷さんが声をかける。彼女が今日から新しくやってきた新人アルバイトだったのだ。


「あ、さっきの。」

すばるを見て風子が笑顔になる。


「風子ちゃんはね、岡山から来たんだって」

東谷さんが言う。


「今までの経験を手放して新しい場所で始めたいと思って、東京へ来ました。」

風子が明るく挨拶をする。


すばるは昨夜ユーチューブで聴いた曲をなんとなく思い出す。




今までの経験を手放す、か。
くよくよしてばかりの自分だけど、様々な想いを手放し、軽くして、満ちていくことができるのだろうか。


「じゃ、すばる君。風子ちゃんに作業手伝ってもらってね」
風子が隣の席に座る。

「あの、さっき。オレンジ色の花の咲いていた家の前で」
「え? あ、お会いしましたよね」
「夏の香りの風が吹いてましたよね。夏というか夏の土の香り」

すばるは驚いて風子を見る。


「あ、変なこと言ってすいません。」

風子が照れたように笑う。


夏の香る風が二人を繋げる。