春の風に吹かれながら篤紀は、悠久の歴史を感じていた。

世界遺産を巡り、古代ロマンを秘めた遺跡を堪能した。


予定外の一人旅ももうすぐ終わる。


数年間吹ガラスの修業をする予定で能登半島の工房へ出向いていたが、大きな地震で中止になってしまった。ほとんど挨拶程度だけで散り散りになってしまった教室仲間を、いやもう少し正確に言うと一目惚れをしたターコイズブルーのコートの女性裕子を篤紀は思い出していた。


偶然すれ違った出会いの時の潮の香り、初顔合わせの時に姿に重ね合わせた女神アフロディーテの幻影。



篤紀はかつてギリシャ神話にのめり混んだことがある。

香織と出逢った中学生の頃だ。


香織を見た瞬間、頭に思い浮かんだ女神はどこかで目にした絵画だった。

大きな貝殻の上に立った髪の長い妖艶な色気を放つ女神。

それが美と愛の女神アフロディーテと知り、詳しく調べているうちに、気づくとギリシャ神話自体に入り込んでいた。


海の泡から生まれたアフロディーテ。愛と性の女神アフロディーテと軍神アレスの間に生まれた愛神エロス。篤紀はアフロディーテの故郷は、トルコの南65キロメートルの地中海に浮かぶキプロス島。いつかそこに旅をしたいと親友の泰典にいつも熱く語っていた。

歴史深いギリシャの遺跡を巡る旅をしたいと。



能登で初めて裕子と会った篤紀の心には、同じ潮の香りの風が吹いた。なぜか篤紀は、恋心に潮風をまとわせる。


篤紀ももう子供ではない。その感情が恋だとすぐに自覚したのだが、女性にうまくアプローチできるような積極的な性格ではない。


しかも不運なことに二人が出逢って、すぐにガラス教室は中止になってしまった。


教室仲間全員で連絡先の交換をしたが、裕子と直接やりとりはしていない。

時々みんなが盛り上がっているライングループにも裕子は時々スタンプで応える程度。


もう二度と会えないかも知れないな、篤紀は女々しい自分に頭を振った。


遺跡横の芝生広場に座り、持ってきたステンレスボトルのお茶を飲みながらなんとなく周囲を見渡す。


ふと目に映る線の細い女性の後姿。裕子の来ていたコートと同じターコイズブルーのセーターが美しい。


篤紀が立ち上がり、服についた草をはたいていると、女性が振り向く。


脳裏に潮の香りが浮かび、篤紀は苦笑いした。


篤紀がいるのは、奈良県の飛鳥エリア。海なし県で潮の香りはありえない。


だが裕子との運命的な再会に、篤紀の心は波だった。