能登の朝は早い。


潮の香りのする通りをぶらぶらと練り歩きながら、泰典の言葉を思い出していた。


日本三大朝市のひとつである輪島の朝市は、非常に歴史もあり平安初期に始まったと言われる。のどくろや能登ふぐ、カニなどの鮮魚や干物、地元野菜、加工食品などから、輪島塗や漆ぶどう、焼き物、布草履など工芸品、民芸品まで、ふらふらと見るだけでも楽しく、能登半島の観光スポットとして申し分ない。


輪島の朝市で好きな魚を買ってお店に持ち込んで朝ご飯を食べさせてもらうといいよ。


彼女と旅行に行ってきたばかりの泰典は、篤紀が能登に行くと聞くと、ここは行くべきだ、あそこも外せないとあれのれアドバイスしてくれた。昨日訪れた絶景の千枚田もその外せないスポットの一つだ。


そして今日も、泰典に勧められた通り、朝8時半から開かれる輪島の朝市で腹ごしらえをしようと、早朝に宿を出て来ていた。


目移りしながら選んだ干物を持って、漁火コーナーへ向かう。リーズナブルな価格でコンロやトング、お箸までを貸し出してくれ、自分で好きに焼いて好きなだけ食べた。


すっかり満腹になったが、今度は腹ごなしにのんびり散策してみる。


「ねえ、これ。面白くない?」

後ろで女性の声がして篤紀は振り向いた。


「ガイドキガキク カキドキカキク。すごくないっ? ラップみたい。」

横の看板を指さしながら話すのは、ブラウンのニットワンピースに袖口にファーの付いた真っ白なコートを羽織ったショートカットの女性。


篤紀が振り返った同じタイミングで、すぐ後ろの女性が振り返り篤紀に背を向けた。インディゴブルーのジーンズの上にスリムなターコイズブルーのトレンチコート。長いストレートの黒髪がつやつやと輝いている。


ふと漂う潮の香り。

篤紀はなんだか心がくすぐられるような妙な感じがした。なんとなく慌てた気分で、看板の方をみやる。


看板にはこう書かれている。


「観光地 ガイド気がきく

買い時か聞く 株相場」


なんだ、これは?


女性二人は、ガイドブックを見ながら篤紀の横を通り過ぎていく。

「オモシロダンダラ、だって。」


スマホで検索してみると、おもしろ段駄羅。古くから輪島の漆塗り職人の仕事場で伝わる言葉遊び。上の句五文字、中の句七文字、下の句五文字。俳句のようだが、中の句七文字が上にも下にも繫がる二重構造になっているのが、面白い。


篤紀は、ここに観光に来たわけではない。いや朝市には観光で来たのだが、能登に来たのは、吹きガラスを学ぶためだ。能登島にある工房で開催される長期ガラス講座に参加することになっている。


翌日、能登島の工房の合宿所で篤紀は荷物を紐解き、同じ講座で学ぶ人たちの顔合わせのため広場に集まった。

正面のドアから入ってきた女性を見て、篤紀は声を上げた。


輪島で見かけたターコイズブルーのトレンチコートの女性。背中越しだったが間違いない。


「どこかでお会いしましたっけ?」

首を傾げ不思議そうな表情の彼女。


一度目の出会いは輪島の朝市。でも彼女は知らない。背中に感じた、心をくすぐる潮の香り。二度目の出会いは、この場所で。そうか二重構造、面白い。


「いや。まあ」

篤紀は曖昧に笑う。

どこかで恋の風が吹いた。