私は自分のために誰かに『お願い』することをしてこなかったかもしれない。
誰かのためにならば、協力やお願いを伝えることができても、自分だけのために『こうしてほしい』って言ってこなかった。
自分だけのために『こうしたい。』『これはできない。』と伝えることに罪悪感のようなものがあった。
自己犠牲は⚪︎で。
利他の精神なら⚪︎で。
周りが笑顔で幸せそうなら⚪︎で。
でも自分はカラッポになっていく。
何かを行動したあとに虚無感が湧くのは、なぜだろう?といつも答えがでないでいた。
みんなに感謝されても、周りが幸せそうでも、
私の虚しさはなくならない。
次を期待されることが、どうにも辛くなっていた。
自分のやりたいことは『みんなの願い』で。
そこに自分の幸せが含まれていないことに気づいたときには、驚いた。
そもそも、
何が自分の幸せで
何が自分の喜びかなんて
考えたこともなかった。
『自分が存在していいのは、
周りの役に立っているときだけだ』という脅しを
私は私に課していた。
きっと…
母親の生き方や在り方をみていて、そう感じたのかもしれない。
周りのサポートも愛も受けとれない母。
弱い自分を許さない母。
自分の時間も持ってるものもすべて周りに与える母。
と
ボロボロになっていく母をどうにか助けたかった私。
母に自分自身を大切にしてほしかった。
『女性』『母』を生きることの過酷さを身近で感じていた。
個人が消えていく恐怖。
家庭の中に自由さがなく、籠の中の鳥のようにみえた。
母を笑顔にしたくて、幸せな姿がみたくて、
なんでもやってみて、
それでも叶わなくて、
無力感が襲い、自分を責める。
この世界観の中を私はずっと生きていたんだなぁ。
と、振り返る。
やっと私は…
私の歓びを選んでいい。
と許せたようだ。
ただ幸せを感じていてもいい。
存在として、そこにいるだけでいい。
私が母の見たかった姿を生きていい。
誰といても、いなくても。
自由で、愛溢れる自分で在る。