観応の擾乱その2です。

 

今回は、尊氏、直義、師直の

室町幕府における権限についてだらだらと書いていきます。

 

太平記等の物語では、室町幕府初期において

尊氏と直義で二頭政治行っているとよく書かれています。

 

自分は、軍事を尊氏、政治を直義と

ざっくり二分割して幕府の経営を行っていたと思っていたのですが

 

実際はというと

直義の権限がとてつもなく大きかった様です。

 

まずは『所領安堵』

これは、武士が代々所有する領地を承認する行為になります。

 

 

次に、これが直義主導の幕政を象徴するもの言ってよいもので

『裁許下知状の発給』

(これは、荘園・諸職の紛争を調停する事で現在で言うところの、不動訴訟に近いそうです。)

これを行う機関を『引付方』といいます。

 

鎌倉幕府では、執権や連署が行っており

政の最高責任者としての権限を持っていた事になるとの事。

 

この時代の領地紛争訴訟というのは

新興の武士に侵略された寺社や公家による提訴が多く

訴人の多くは、係争地を正当な根拠によって代々所有している事が一般的で

訴人が勝訴する確率が高かったそうです。

 

直義は、最高権力者として公平な裁定を降さなければならない立場で

そのほとんどの所掌が寺社や公家の勝訴となってます。

これって、ほんと新興の武士団から相当恨まれた事でしょうねぇ

 

 

その次ですが、全国の武士に戦争への動因を命じる軍勢督促状があるらしいのですが

この督促状を幕府が発足すると、直義が一元的に発給したらしいです。

合戦で手柄を挙げた武士に発する感状を発給したのも直義です。

そして、洛中の警察を担当した侍所も管轄

すなわち直義は、武士の棟梁に必須である軍事指揮権と警察権も掌握していた事になります。

 

これは本当に以外でした。

直義は政治の担当で、軍事に関しては全くのノータッチだと思ってましたので。

 

 

そして尊氏の権限についてです。

直義にこれだけの権力を渡していたのですが

尊氏は完全に隠居したわけでなく、多少の権限を有していました。

 

まずは『恩賞充行』

これは、合戦に軍忠を挙げた武士に、褒美として所領を給付する権限で

これを行う機関を『恩賞方』といい、尊氏が掌握

 

それと守護の任命

守護とは戦国時代を知っている人は知っていると思いますが

各国の軍事・行政を行う事ができる役職。

 

これで終わりです。

尊氏が持っていた権限って、これくらいらしいです。

ですが、恩賞の給付に守護の任命

この2つは武士を統制するという行為においてとても大きい権限。

所領給付したり、権限の大きな役職に任命したり。。。

これは、武士団から喜ばれますよね。。。

 

これを見ると、本当は二分割などではなく

権限は大きく直義に偏重していて

事実上の最高権力者は直義って事だったみたい。

そして、その頃の直義は『三条殿』と呼ばれていたそうです。

 

これは将軍御所があった場所が三条で、将軍家の邸宅として用いられた場所を指しています。


後に場所が室町に移され、将軍家を『室町殿』と呼んだ事を考えると

事実上の『将軍』と認識されていたのではないかという事らしいです。

 

ただ一応、書状等での署名では尊氏が上って事にはなっていた様ですけど。


で、ここまで権限を委譲しておきながら

なぜ一部を保有したかと続きまして

その理由として、「南朝との戦争が継続していたから」と筆者は述べています。

 


俺は、尊氏が戦に強く、直義はてんで弱いので

尊氏が必要なんだろうと思ってたのですが、これが違っていて

 

充行、安堵、裁許を直義1人でおこなう行うのは無理

なので、尊氏にもお出まし願うといった理由だそうです。

 

これは、後醍醐天皇の失敗を繰り返さない為との事。

後醍醐政権は、最高責任者である後醍醐天皇が

全ての政務を取り仕切る事になっており

これにより、行政のスピードが極端に遅くなり

政が停滞してしまった事で、武士団等不満が大きくなり

後醍醐政権に反発してしまう事になります。

 

この頃の室町政権は、三管四式などの官僚体制も整っていないので

個人に頼るしかなかった訳ですね、多分。

 

そういった理由で、一応は二人で政務を行ったわけですが

ただ、尊氏は既存の所領秩序を変更し新しい秩序を創造する。

直義はあるべき姿に秩序を戻す保全。

そういった感じなっていた訳でして

 

新政権と飲むいうのは、創造の要素がとても重要でして

政権基盤が確立した後に、保全の要素が大切になってきます。

室町初期は、創造機能と保全機能がかなり明確に分離した政権となっていたのです。

 

次は高師直についてですが

この師直の家系は、あの「長屋王」の一族だそうです。

その後紆余曲折があったんでしょうね

いつの間にか代々足利氏の執事の家系となっています。

 

この執事という役職ですが、使える家が小さければ、家の中の細々とした雑用を行う仕事ですが

 

家が大きくなれば、それだけ強い権力を持つ事になります。

そのいい例が、北条得宗家執事で後の『内官僚』

鎌倉末期には、その殆どの政務を取り仕切ってました。

平頼綱や、長崎円喜、高資親子なんかが有名です。

平頼綱は大河で「北村 一輝」さんが演じてましたね。

 

天下人になった足利家の執事ともなれば

その権限は非常に大きいわけです。

なんせ後の『三管領』ですから

※関東では関東執事と呼ばれ後の『関東管領』

 

さて師直ですが、彼は尊氏に従い、各地を転戦室町幕府樹立に貢献

執事としても広範囲な権限を行使し、恩賞方の頭人として

尊氏の恩賞充行袖判下文の発給に携わるっています。

 

そして『引付方』の頭人も兼任

この引付方は、直義が掌握していた機関で

直義の裁許下知状の発給を行う機関なのです。

 

ここで多少違和感を覚えたのですよ

この二人、とてつもなく仲が悪かったのでは??

 

師直の権限は多岐にわたり通常尊氏の執事とされているが

三条殿とよばれた直義の執事でもあったと筆者は考えているそうです。

 

足利幕府最高責任者の直義配下にいる事はあたりまえの事なのだそうです。

まぁごもっともな話です、考えてみたら直義は主筋ですしね。

この時期あたりまで、二人はうまくやっていた様です。

 

それと、北朝との交渉も師直の仕事だったようです。

いくら尊氏が強引に作った傀儡とはいえ、朝廷との交渉は大変だった事でしょう。


そして、最も重要な権限は執事施行状の発給だそうです

これは、尊氏の「恩賞充行」を諸国の守護に命じる文章との事


尊氏の「恩賞充行」を広範かつ円滑に遂行し利益を与え、諸国の武士の支持を集める。

『執事施行状』は室町初期において必要不可欠な文書だったそうです。

 

でもまぁ、師直はこういった政務より軍事での活躍が有名ですよね。

一度は尊氏を九州に追いやった北畠顕家を討ち取っていますしね。

 

今回は、観応の擾乱の主要人物の

権限というか、立ち位置だけしかアップ出来ませんでした(^^;


次回は、どの様にして擾乱までなっかたをアップします。