高橋紹運―戦国挽歌 (人物文庫)/西津 弘美

¥819
Amazon.co.jp
『高橋紹運』です。
戦国末期の九州を代表する名将の1人で
大友家中では、立花道雪と双璧をなす猛将です。
豊後三老の1人である『吉弘鑑理』の次男で
『吉弘鎮理』、『高橋鎮理』、『高橋紹運』と
息子の宗茂ほどではないですが
結構名前を変えてます。
まぁ、紹運の父である『吉弘鑑理』の名前出しましたが
ほとんど知名度ないと思うので少し説明しときますね。
この人、とても有能な武将でして
あの宗麟の主要な合戦の多くに参加しています。
しかも、道雪が立花家に入る前の筑前の軍権を、彼は握っていたそうです。
宗麟から信頼されてたんですね~
そんな理由もあり
紹運と、紹運の兄である『吉弘鎮信』
この二人の主な活躍場所は、親父が勤める筑前地方になるワケです。
まぁ、鎮信は後に宗麟の嫡子『義統』の側近になったので
筑前を離れて豊後に戻るんすけどね・・・
その後、これが運命の別れ道ってヤツになっちまいます(;^_^A
ちなみに、『吉弘鑑理』以外の三老は
信長の野望等では、臼杵鑑速、吉岡長増って事にってますが
この小説では、吉弘鑑理、臼杵鑑速、戸次鑑連となっています・・・
三家老からも外され
小説に、名前すら出てこない吉岡長増さん(T_T)
不憫すぎるぜよ・・・
さて、前置きはここまでとして
小説の内容なんですが
初っ端からメインイベントである
『岩屋城の戦い』から始まります。
これは!?
最初からクライマックスだぜ!!
と思ったんですが
その後、過去の話に戻るという、典型的なパターンでした。
実際は、紹運が『高橋鑑種』が追放された宝満城に入り
高橋の名を継ぐところから物語が始まります。
紹運は、筑前に入ると
主に、道雪の補佐役に撤して活動します。
年齢的に紹運は、道雪の息子と言ってもおかしくない年なんですが
盟友といってよい仲だった様です。
まぁ、戸次、吉弘家共に大友庶流の一族だし
父親の吉弘鑑理と道雪は、筑前筑後で共に戦ってきた仲なので
その息子である紹運は、道雪にとって、息子の様だったのかもしれません。
性格も道雪同様、非常に生一本って感じでして
これでよく、あの宗麟の近習を勤める事ができたなぁとついつい思ってしまいます(;^_^A
紹運が宝満城に入った当時、道雪はまだ筑前に赴任しておらず
立花城の城代を努めていたのは、紹運の兄である吉弘鎮信です。
彼もまた、非常に名の知れてない武将ですが
筑前では、宗麟の代理として
戦だけでなく、博多商人の対応を行うなど
外交能力にも長けており、なかなか有能な武将なのです。
その鎮信に帰国命令が出され、道雪が立花城に入ったのが元亀二年(1571)
小説などでは、ここから『立花道雪』と名乗る様になるのですが
道雪は自分の存命中、『立花』の姓を名乗っておらず
実際は、ずっと戸次道雪と名乗っていたみたいです。
『北条早雲』が、北条の姓を名乗ってないってのと同じ様なもんすかね?
紹運の初陣は、対毛利戦
通称『門司合戦』の時です。
しかし、この戦ですが
大友方の、大敗と言ってよい負け方をしています。
この紹運さんは
最初っから苦難の道を歩まされる運命だったんすねぇ。
紹運の妻は、同じ大友家中の斎藤家から貰ってますが
嫁に貰う前に、この女性が疱瘡にかかり
顔が醜なってしまったので斎藤家から婚儀を取り止めようとしたところ
紹運は『女は顔じゃないやい!心なんだよ!』
と男気を見せ、婚儀を行ったとあります・・・
しかしこの話、どこかで聞いた様な気がしなくもない(;^_^A
吉川元春とか・・・
で、この女性との間に
これまた、九州を代表する武将になる
『立花宗茂』が産まれます。
どちらかというと
紹運より、この宗茂の方が有名かも・・・
名将の子に名将が産まれるのは
結構珍しいですよねと思いましたが
島津や、後北条がいるじゃん!
と、すぐ自分にツッこんでしまいました。
あっ、でも関が原後、大名に復活できてなかったら
実父、養父と違いダメな武将だったって事になってたのかな?
後に、宗茂は道雪の懇願で養子になる訳ですが
紹運は養子に行く宗茂に
『道雪殿と父が争うことになったならこの太刀で父を討て』
と、とてもカッコ良い訓戒を述べています。
さすがは、頑固一徹親父の紹運。
とても不器用ですね~
この小説、主人公であるはずの紹運はあまり活躍しません。
その一方で、沖田畷の戦い(島津対竜造寺)
あたりを細かく書いてあったりするので
『小説高橋紹運』』というよりは
九州三国志?といった感じでしょうか。
ただ、紹運を主人公にした小説なんて
そうそうあるものではないので
私としては、結構満足した感じです。

¥819
Amazon.co.jp
『高橋紹運』です。
戦国末期の九州を代表する名将の1人で
大友家中では、立花道雪と双璧をなす猛将です。
豊後三老の1人である『吉弘鑑理』の次男で
『吉弘鎮理』、『高橋鎮理』、『高橋紹運』と
息子の宗茂ほどではないですが
結構名前を変えてます。
まぁ、紹運の父である『吉弘鑑理』の名前出しましたが
ほとんど知名度ないと思うので少し説明しときますね。
この人、とても有能な武将でして
あの宗麟の主要な合戦の多くに参加しています。
しかも、道雪が立花家に入る前の筑前の軍権を、彼は握っていたそうです。
宗麟から信頼されてたんですね~
そんな理由もあり
紹運と、紹運の兄である『吉弘鎮信』
この二人の主な活躍場所は、親父が勤める筑前地方になるワケです。
まぁ、鎮信は後に宗麟の嫡子『義統』の側近になったので
筑前を離れて豊後に戻るんすけどね・・・
その後、これが運命の別れ道ってヤツになっちまいます(;^_^A
ちなみに、『吉弘鑑理』以外の三老は
信長の野望等では、臼杵鑑速、吉岡長増って事にってますが
この小説では、吉弘鑑理、臼杵鑑速、戸次鑑連となっています・・・
三家老からも外され
小説に、名前すら出てこない吉岡長増さん(T_T)
不憫すぎるぜよ・・・
さて、前置きはここまでとして
小説の内容なんですが
初っ端からメインイベントである
『岩屋城の戦い』から始まります。
これは!?
最初からクライマックスだぜ!!
と思ったんですが
その後、過去の話に戻るという、典型的なパターンでした。
実際は、紹運が『高橋鑑種』が追放された宝満城に入り
高橋の名を継ぐところから物語が始まります。
紹運は、筑前に入ると
主に、道雪の補佐役に撤して活動します。
年齢的に紹運は、道雪の息子と言ってもおかしくない年なんですが
盟友といってよい仲だった様です。
まぁ、戸次、吉弘家共に大友庶流の一族だし
父親の吉弘鑑理と道雪は、筑前筑後で共に戦ってきた仲なので
その息子である紹運は、道雪にとって、息子の様だったのかもしれません。
性格も道雪同様、非常に生一本って感じでして
これでよく、あの宗麟の近習を勤める事ができたなぁとついつい思ってしまいます(;^_^A
紹運が宝満城に入った当時、道雪はまだ筑前に赴任しておらず
立花城の城代を努めていたのは、紹運の兄である吉弘鎮信です。
彼もまた、非常に名の知れてない武将ですが
筑前では、宗麟の代理として
戦だけでなく、博多商人の対応を行うなど
外交能力にも長けており、なかなか有能な武将なのです。
その鎮信に帰国命令が出され、道雪が立花城に入ったのが元亀二年(1571)
小説などでは、ここから『立花道雪』と名乗る様になるのですが
道雪は自分の存命中、『立花』の姓を名乗っておらず
実際は、ずっと戸次道雪と名乗っていたみたいです。
『北条早雲』が、北条の姓を名乗ってないってのと同じ様なもんすかね?
紹運の初陣は、対毛利戦
通称『門司合戦』の時です。
しかし、この戦ですが
大友方の、大敗と言ってよい負け方をしています。
この紹運さんは
最初っから苦難の道を歩まされる運命だったんすねぇ。
紹運の妻は、同じ大友家中の斎藤家から貰ってますが
嫁に貰う前に、この女性が疱瘡にかかり
顔が醜なってしまったので斎藤家から婚儀を取り止めようとしたところ
紹運は『女は顔じゃないやい!心なんだよ!』
と男気を見せ、婚儀を行ったとあります・・・
しかしこの話、どこかで聞いた様な気がしなくもない(;^_^A
吉川元春とか・・・
で、この女性との間に
これまた、九州を代表する武将になる
『立花宗茂』が産まれます。
どちらかというと
紹運より、この宗茂の方が有名かも・・・
名将の子に名将が産まれるのは
結構珍しいですよねと思いましたが
島津や、後北条がいるじゃん!
と、すぐ自分にツッこんでしまいました。
あっ、でも関が原後、大名に復活できてなかったら
実父、養父と違いダメな武将だったって事になってたのかな?
後に、宗茂は道雪の懇願で養子になる訳ですが
紹運は養子に行く宗茂に
『道雪殿と父が争うことになったならこの太刀で父を討て』
と、とてもカッコ良い訓戒を述べています。
さすがは、頑固一徹親父の紹運。
とても不器用ですね~
この小説、主人公であるはずの紹運はあまり活躍しません。
その一方で、沖田畷の戦い(島津対竜造寺)
あたりを細かく書いてあったりするので
『小説高橋紹運』』というよりは
九州三国志?といった感じでしょうか。
ただ、紹運を主人公にした小説なんて
そうそうあるものではないので
私としては、結構満足した感じです。
![]() |
| 戦国武将Tシャツ【本多忠勝】/TWT-ST030 |
| 和柄オリジナルデザインの戦国武将・蜻蛉切・本多忠勝Tシャツ! 信長、秀吉が讃えた戦国武将の中でも最強を争える一人で、徳川四天王・十六神将。天下三名槍 蜻蛉切の使い手。穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話があり、織田信長にその並はずれた武勇を「日本の張飛」、さらには「花実兼備の勇士」と讃えられた。また、豊臣秀吉には「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された。現在もその評価は変わらず、数ある戦国武将の中でも最強を争える一人と言われる。 出陣するとき、忠勝は愛槍である蜻蛉切と鹿角脇立兜、そして肩から大数珠をさげるのが常であったといわれる。大数珠を身につけたのは、自らが葬った敵を弔うためであったといわれる。このように忠勝は勇将であったが、必ずしも戦争を好むような人物ではなかった。 徳川四天王・十六神将に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。生涯において参加した合戦は五十数回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。殆どのメディアでは、その事から重武... |
| 4,095円 |
