
- 立花道雪―炎の軍扇 (人物文庫)/西津 弘美
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今回は、鬼道雪または
雷神の化身とも呼ばれている猛将
立花道雪です!
九州北部に覇を唱えた
大友家の重鎮で
主に、今俺が住んでいる筑前地方(福岡)で
『城督』として軍権を与えられ活躍してた人物です。
元々の名は『戸次鑑連』で実は、この名乗りの方が長いんですが
やっぱ『立花道雪』
の方が有名なんですよね。
俺はこっそり
『雷親父ベッキー』と呼んでますけど(;^_^A
で、道雪の君主である
『大友義鎮』ですが
どちらかと言えば『宗麟』の呼び名の方が、有名ですかね?
彼の家督相続前には
宗麟派と義鑑(父)と塩市丸(弟)派で対立しており
宗麟は、廃嫡寸前まで追い込まれていたそうです。
そこで起こったのが『二階崩れの変』
簡単に説明すると
宗麟派の、津久見美作と田口新蔵人が
義鑑と塩市丸、そしてその生母を襲撃するという事件です。
※他にも色々説があります。
この襲撃による傷が元で、義鑑は死去
家督は宗麟が継ぐことになります。
この時の道雪さんですが
彼は一貫して、宗麟支持にまわり
宗麟の、家督相続に尽力しています。
そういう理由もあり
宗麟はこの後、道雪に全く頭が上がらなくなるんですねぇ。
この小説においての宗麟の役ドコロですが
基本的に、バカ殿の立場になっています。
が、実際の宗麟はと言うと・・・
部下の嫁さん寝取っただの
白拍子呼んで一日中飲んだくれてただの
京都まで、美人漁りに行っただの
キリスト教にハマり過ぎて神社仏閣を壊してまわっただの・・・
うん、完全なバカ殿っすね(;^_^A
こんなバカ殿に対し
道雪は常に諫言を行い
行状を改めさせていました。
宗麟はその場では
道雪の言う事を聞き
真面目に政務を行いますが
暫らく経つと、また元に戻るといった感じで
行状が定まらず、その都度道雪から説教を受けていた様です。
で、結局最後は、忠臣の雷親父を煙たく思い
遠くに追いやり、結局は自滅してしまいます・・・
政治の中枢から外れた道雪ですが
どちらかと言えば
ここからの活躍の方が有名かもしれません。
衰退する大友家に、ひたすら忠誠を尽くす名将
まさに『亡国の忠臣』
う~ん、道雪にぴったりの言葉だ!
さて、今回の主役の道雪の戦暦ですが
彼が、主にどの勢力と戦っていたかといいますと・・・
同じ九州の、島津や龍造寺と言いたくなりますが
実は毛利です!
結構知らない人が多いですよね~(;^_^A
で、何故大友と毛利が争う様になったかと言いますと
大内家の内部抗争が最大の原因です。
大内家の重臣、陶晴賢と相良武任の対立から始まった『大寧寺の変』にて
大内義隆を討った陶晴賢が
大内家の後継ぎに擁立したのが
宗麟の異母弟『大内義長』
その後、日本三代奇襲の一つ
『厳島の戦い』で、陶晴賢敗死すると
大内家は衰退、毛利家に滅ぼされ、義長は自害して果てます。
大内滅亡後から
元就は隣国となった筑前地方を狙って
度々進行してくる様になってくるわけです。
元々筑前国と言うのは
古くからの騒乱の地で
大友や毛利の争奪戦前から大内、大友、小弐の三国が入り乱れて争い
最終的には、大内氏が小弐氏を肥前に追いやり、勝利しています。
そして、大内滅亡後は
一応、大友家の支配下に納まってはいるんですが、毛利も狙っていて、不安定な状態が続きます。
何故色々な大名が
この筑前国が欲しいかと言いますと・・・
筑前には『博多』があるからです!
この当時の博多は、堺と並ぶ巨大貿易都市。
ここを押さえれば
日明貿易や南蛮貿易等で
巨大な富が入ってくるワケですよ。
自国が栄える為には
のどから手が出るくらい欲しい都市ですよねぇ。
そして、宗麟がこの筑前を手に入れた頃が、大友氏の全盛期となります。
それが、永禄二年(1559年)
この年、幕府から九州探題の職を貰い
豊前、豊後、筑前、筑後
肥前、肥後の六ヶ国の守護職に任命され
名実共に『九州の覇者』として君臨します。
後に、九州を三分して争う島津、龍造寺ですが
この頃の島津氏は、まだ義久でなく、父親の貴久の時代で、ようやく薩摩を統一し、大隅制圧に乗り出した時期で
龍造寺隆信に至っては
まだ肥前の有力な国人に過ぎず
大友氏に、一応ですが従属している状態です。
ホントにもう、九州じゃブッチギリに強いんですよ。
いや、日本全国見渡してもこの当時の大友氏に比肩できる大名は
今川、毛利くらかも。
毛利がチャチャさえ入れてこなければ
道雪や紹雲もいる事だし
九州制覇も可能だったんじゃないかな?
で、毛利との筑前争奪戦は一度足利義輝の仲介で和睦して、中断しますが
何と、10年以上も続く事になります。
これが、大友氏衰退の要因となっちまいます。
毛利を追い出すのに時間と戦力を浪費し過ぎてしまい
島津や龍造寺の台頭を許してしまうんです。
毛利は、大友との和睦中に尼子を完全に滅ぼし
その後、本格的に九州への進出を再開。
道雪は、毛利との和睦に反対していたんですが
宗麟は、道雪を無視して和睦を結んでしまったんですよね・・・
そしたらまぁ、毛利は準備万端整えて、再び進行・・・
宗麟、非常に甘すぎです。これに限らず、和睦や降伏に関して
この他にも数々の失敗をしています。
このあたりは、元就と比べると、かなり劣ると思わざるを得ないトコです。
毛利は、一度大友に追い出された筑前の豪族
秋月種実を援助し、筑前で旧領回復の兵を挙げさせると
それに続く様に
同じ筑前で、大友一族の重臣である高橋鑑種が毛利の誘いに乗り
宝満城、岩屋城で挙兵。
宗像などの筑前の豪族衆も一斉に兵を挙げます。
この討伐に向かったのが
この当時筑後にいた道雪です。
道雪は、岩屋城を落とす事には成功しますが
宝満城を攻めている最中に、秋月勢に襲われ敗北を喫します。
生涯無敗とか言われている道雪ですが、結構負けてるんですよね。
これを見た、これも大友一族である、立花鑑載が毛利の誘いに乗り
大友に反旗を翻し、立花城で兵を挙げると
肥前の国人、龍造寺隆信も毛利と手を結び
大友に対して、敵対行動を起こし、道雪出陣中の、筑後の国人を支配下に置いていきます。
宗麟最大のピンチです(;^_^A
ちなみに、この立花鑑載という人物ですが
過去にも謀反を起こした事があるんですが
宗麟が、一族である事という理由で、ほぼペナルティなしで許され、立花城の城主となった人物です。
これも、宗麟の甘さが招いた手痛い失敗ですよね。
危機的状況にある筑前で
道雪は、立花城が重要な拠点とみなし進撃を開始
立花城は陥落し、立花鑑載は自害します。
その直後、秋月種実は降伏。ここで宗麟が、降伏した秋月に、旧領を安堵するという甘さを見せます。
これがまた、後に自分の首を絞める事になります。
ホント領国統治の下手な人です(;^_^A
立花鑑載が自害し
秋月種実が降伏すると
他の筑前の豪族も降伏し
残るは、宝満城に拠る高橋のみとなるのですが
宗麟は、先に竜造寺討伐に向かいます。
圧倒的な兵力差で竜造寺を圧倒していた大友軍ですが
決着をつける前に
吉川元春と小早川隆景率いる毛利軍が
海を渡り筑前へ攻め寄せ、瞬く間に立花城を奪取
挟み撃ちを恐れた道雪は、急ぎ竜造寺と和睦を結び
立花城再奪還に向かい
筑前の多々良浜で
小早川隆景と対陣します。
この大友と毛利の戦いを『多々良浜の戦い』というんですが、まぁ知ってる人はごく少数ですよね・・・
道雪はこの戦いで先頭に立ち
小早川軍を撃破しますが、戦線は膠着
この膠着状態を打破する為大友家に居た、大内一族の大内輝弘に、兵を与えて周防に送り内乱を画策
また、山中鹿之介が同時期に兵を挙げた為
毛利軍は筑前から撤退
この毛利軍の撤退により
高橋鑑種は降伏
これにより、10年以上続いた筑前争奪戦は、大友側の勝利となります。
降伏した高橋鑑種ですが
家督を剥奪されるものの
殺される事もなく
毛利家に引き渡されたそうです。
やっぱりツメが甘いよなぁ、宗麟って・・・
高橋鑑種が追放され
当主のいなくなった高橋家を継いだのが、九州では超有名な
『吉弘鎮種』です!!!
えっ?
知らないって???
じゃ、高橋鎮種って言い直します・・・
それでも分からない?
じゃ、あれっす
『高橋紹雲』これでどうだ!
岩屋城で、島津の大軍相手に、壮絶な討ち死にをした忠臣です!
紹雲については、この次詳しく書きます(^-^)
毛利を追い出し、筑前を固めた大友家の次の戦略は
毛利との筑前争奪戦の
最中に、筑後に侵略してきた龍造寺の討伐です。
約六万の大友に対して
五千の龍造寺軍
佐嘉城に籠もる龍造寺軍ですが
援軍のあてもなく
このまま落城するしかない状態で、龍造寺隆信は
降伏論に傾きますが
鍋島信生(直茂)が、奇習攻撃を提案。
弱気になっていた隆信は、この進言を退け様としますが、隆信の生母である
慶ギン尼の一言で、奇襲に踏み切ります。
この時、信生が二太刀で畳を切り裂き、戦う決意を示した行為は
『二太刀の畳切り』
と呼ばれ、戦う武士の決意を示すものとして
佐賀藩の『葉隠くれ』精神として受け継がれます。
信生は、500あまりの手勢で攻め込み
二千人を討ち取るという大勝利に終わります。
この龍造寺方の勝利により大友方に味方した、肥前や筑後の国人が戦線離脱
戦線はこう着状態に・・・
結局、大友は攻めきれず
龍造寺と和睦を結びます。
この和睦で、不思議と思うのは
領地的には、龍造寺方有利な条件であったのですが
今後も龍造寺家は、大友家に従属する事になってるんすよね~・・・
何故なんでしょう?
色々とネタを提供してくれそうな戦いですよね

ちなみに、この戦いを
『今山の戦い』と呼びます。
いや~・・・
かなり長くなりすぎました(;^_^A
この後は、次に書く
『高橋紹雲』に書く事にします。