高天原の住所は、交番では教えてもらえない 高天原はこの辺り一帯だった。 黄泉平坂はこの場所だ。 根の堅州国は、〇〇県〇〇市。 そうした比定を試みる学者先生方の努力や誠実さを、 私は軽んじるつもりはない。 積み上げられた資料と、丹念な検証の上に成り立つ営みであることも承知している。 けれど、ふと立ち止まる。 交番に行って、 「高天原の住所を教えて下さい」 とは、誰も言わない。 同じように、 「喜びの行き方」 「納得の番地」 「覚悟の最寄り駅」 を、役所に調べに行く人も居ない。 それらは、地図に載らないからだ。 人は皆、それぞれに 試練という名の山を登っている。 その山は、自分で選んだものもあれば、 思いがけず目の前に現れたものもある。 避けたつもりでも、形を変えて再び現れることもある。 愚痴を言いながら、 文句を言いながら、 それでも多くの人は、ちゃんと登っている。 登らなければ、次の景色が見えないことを、 理屈より先に、身体が知っているからだ。 山を登るだけではない。 人は皆、 潮というチャンスを窺っている。 今は出る時ではない。 ここで踏み出せば流される。 もう一呼吸、待てば風向きが変わる。 カレンダーにも、マニュアルにも書いていないが、 多くの人は、案外それを外さない。 料理人が、鍋の音や湯気の匂いで 中の具合を察するのと、よく似ている。 そして、人は 潮時も知っている。 いつまでも居座らない。 無理に勝ち切ろうとしない。 引くことで、次に繋がる場面があることを、 経験として知っている。 これもまた、誰かに教わったわけではない。 新しい土地に行った時の 根の張り方も、同じだ。 いきなり太い根を張らない。 土の質を確かめる。 水の巡りを見る。 先に根を張っている存在を、乱暴に傷つけない。 引っ越しでも、職場でも、 人間関係でも、 ほとんどの人は、自然にそれをやっている。 生き物としての知恵だと思う。 そう考えると、 高天原、黄泉、根の堅州国は、 どこか遠い昔の異界ではなくなる。 高天原は、 心が澄み、循環が回っている状態。 黄泉は、 執着や停滞に沈み、戻れなくなりかけた局面。 根の堅州国は、 避けて通れない試練と、 自分の弱さに向き合わされる通過点。 私たちは日々、 それらを行き来して生きている。 神話を、地図にしてしまうと、 話は小さくなる。 だが、 生き方の比喩として読むと、 神話は今も有効だ。 一本道を示さず、 正解を断定せず、 「どう在るか」だけを、そっと問う。 それは、日本の神話が ナビではなく、コンパスだからだと思う。 高天原の住所は、 交番では教えてもらえない。 けれど、 山を登り、 潮を読み、 潮時を心得、 新しい土地で根を張ろうとするその営みの中に、 確かに、それは在る。 多くの人は、 もう十分に、それを生きている。
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