暑気と紫外線にすっかりやられてしまいましたよ……。
 肌は赤くはならないのですが、紫外線に弱くなっているみたいです。私のためにオゾン層を守って。
 
 不思議なのですが、一貫して「そうではない」とわざわざ伝えているのに、全く逆の話が実しやかに語られたりします。
 こういった嘘やデマがネットで書かれて、更にまとめサイトが取り上げて広がっていくというのは、良くあることと言われればそうなんですが、最近の数々の事態に触れると、「どこかの誰かが何かの意図で、事実ではないこと広げているんじゃないか?」との指摘に笑ってすまされないと感じるものがあります。
 というわけで、冒頭の理由から随分と時間が経ってしまいましたが、前回の補足を主観的にはひっそりと。
 あくまで私個人にまつわる事柄について。


 まず端的に。
 ・私はデビュー作が売れなくて路線変更を強いられたわけではありません。
 ・デビュー作がだめでラブコメ書かされたなんて事実ではないし、そういった主旨の発言をしたことはありません。
 ・私個人は嫌ってませんが、これまでラブコメを書いたことはありません。
 ・私はMW文庫のために創作をしたことはありません。文庫間の移動の理由に、作者の作風への考慮を含む戦略的?事情はありません。
 ・数字の話が出てきたのは初めてのことで、しかもこれは最新作の評価のみについてです。


 さて、私と電撃編集部との間に起こった問題は、本来ならば難しくはないはずなんです。 
 という以前に、「通常ならば起こらないだろ」との真っ当な突っ込みを入れざるを得ないはずなんです。と言ったら、初代担当の存在から言及せねばならないのでしょうけれど。


 ともあれ、最初から最後まで続いた問題の柱は『何を、どう、創作していくか』という認識について、編集側と「一致」どころか「前進」できなかったことでした。
 それ故に、創作においては、最近の場合であっても小山さんの目から見てさえ「効率が悪い」ものにはなってしまっていたわけです。

 だから、この事情を無視して小山さんが唐突に持ち出してきた、枠を嵌めることを優先的な解決策とするのは、横たわる問題からすると本質的に的外れなわけでした。そもそも、通達前にこちらがアポを取って申し込んだ「打ち合わせ」は、少しでもこれを是正するためでした。いざ当日、出向いてみれば小山さんにアポを反古にされ潰されてしまったわけですが。


 そこに至るまでに建設的な進展が上手く捗らなかったのには、主に二つの理由がありました。


 一つはデビュー作に関することです。
 これには貴重なビジネスチャンスを、編集側というかお花畑な初代担当に潰された、純粋で痛恨な痛手があったのは言うまでもありません。
 しかも、二作目は初代担当が自ら約束(というか取引条件)があったにも関わらず、「実績のない新人作家の新シリーズ」扱いでしたので、発行部数は大幅に減らされました。
 私がこの事実を知ったのは発行してからしばらく後です。
 「デビュー作はシリーズにしないで、私の指示する方針と方法でやれ」と言われた時も、初代担当からはこういった説明は何らありませんでした。
 他の多くの重要な事柄と同じくこのことも「伝えたと思ってて言ってなかった(それぐらいで文句、言うなよ)」のか、プロデュースする者としてそれによるリスクをまともに考察できなかったのか。
 ともあれ、この一事に限っても、「私は悪くない。上手く行かなかったのは、私の指示に水鏡が消極的だったからだ」と省みない初代担当は「他者と創作する編集者という役割を、同人ごっこ(水準)ならともかく本来は職業でやってはいけない人」なんでしょう。


 ところで、このデビュー作を巡る問題は、編集部の他の方との意思疎通と関係性の構築でも重大な問題を生じさせました。

「売れると思って自分たちで評価して、それで賞を与えて出版して、しかも、実際に『ちゃんと売れた』のだから、それを活かせばいいだけのことではないか。
 それをわざわざ全否定した方針を作者に強いてやって数字で報われなかったのだから、その編集方針は間違っていた以外にはならないでしょう?」
 という点について、プロデュースする編集側が「間違ってはいない」と言い張ったのです。
 
 「間違っていない」と言い張っていながら、編集側からは一度として『明確な論拠や責任ある論理』を提示されたことはありません。 
 これが「ビジネス感覚として」、基本的に私には全く理解ができないのでした。
 逆に言えば、
「『明確な論拠や責任ある論理』を提示できないにも関わらず、ビジネスの基準である数字の結果が出ている事柄について「間違ってはいない」と無責任に言い張る『プロデュースを担う職業人としての神経』が理解ができない」
 という状態だったのです。
 それがために、「自分は事情を知っている」と称して登場してくる編集部の方に「話せば通じるだろう」と試みて「間違ってない」と返ってくるので「え、なんで!?」と混乱して、という構図が繰り返されることになりました。


 しかも、これにまた別の要素が加わって、諍いを厄介なものにさせました。
 
 例えですが、
「私はやらないが、万引きが間違ったこととも悪いこととも思わない」
 と、私が真面目に公言したとします。
 すると、強い批判が生じるでしょう。
 これに対して私が
「私はやらない、と言っているじゃないか。なんで責められるのか!」
 と返したら、多くの人は戸惑うなり呆れるなりするのではないでしょうか。

 万事となるとおおげさですが、小山さんを始めとした編集側との対話でこれと同質のやりとりがかなりあったのです。
 例の「アポしたのに潰された打ち合わせの席」でも、小山さんから「二作目の方針が(ビジネス)戦略として間違っているとは思わない」と言われました。
 しかも、「(出版も販売も)数字を把握している」と明言もされた上で「(ビジネス戦略として)間違いと思わない」と小山さんは主張を重ねられました。

 この「間違ってない」というのは小山さん自身の論理と見解です。
 これについて、おかしいのではないか、と私は強く訴えたのですが、ところが、小山さんは「自身の見解(問題)」を問われていることを、どうしたものか理解されようとしませんでした。

 その象徴が、この場面でも持ち出された「部長として謝っている(過去の部下の不手際は謝っているじゃないか。蒸し返すなよ)」でした。
 こちらが訴えていることと噛み合わないわけです。

 この無理解は、通達とやらを告げてきた席でも変わらずで、「部長として謝ったじゃないか」と部下の問題だとの主張を繰り返されても、ご自身の問題だとの面には最後までノータッチでした。


 そして、更にこのトラブルが続いたのと、この双方の認識に重大なズレをもたらしていたのに、「小山さんの部長判断」は非常に大きな要因でした。

 初代担当とのトラブルをやっと(!)一片とは認識してくれた際に、編集側より担当交代について提案されました。
 これについて私は必死に反対しましたが、最終的に部長判断により無視されて強行されました。
 その方によると「『結果的に』、円滑な創作ができなかったから(でも、自分ならできる)」とのことでしたが……。

 ・デビュー作自体も作風も自分は気に入らないので、嘘をついてまで路線変更を強いた初代担当の判断は間違ってない。
 ・それを修正する必要を感じない。
 ・デビュー作の売り上げは考慮しない。
 →以上のことから、デビュー作の二巻は芽は潰え、多大な苦労を経て「私がお花畑の住人になれないことは理解してもらった」ことで得た初代担当との間での合意もぶち壊し。
 つまりは『編集者の自分の考える電撃的なものを書くように』。
 ・初代担当とのトラブルについてろくにそれまで編集部よりまともな説明がなかったので、「事情説明をしてもらいたい」と訴えていて編集長からはそれに応じるとの言質を得ていた件について。
 →「今更、そんな説明が要るのか」との態度。
 ・それ以前の初代担当による自分に都合のいい報告を鵜呑みにして、こちらへの数々の心無い言動及びその後の初代担当の態度について。
 →自身について省みるつもりもないし、事実誤認があるとの訴えにも「今更、事実を確認するつもりはない」
 ・「『結果的に』、円滑な創作ができなかった(上述も含めた)数々の事情」について。 
 →「初代担当の件は申し訳なかった。『だけど、こうして人が変わったのだから、心機一転しろ(お前の言う個別事情について、自分は検討するつもりなどない!)』」
 
 ま、人の思考法や価値観、好き嫌いはそれぞれですから、私もいちいち言いたかないですけど……。
 こういう価値観や姿勢そのままで「信頼関係があるチームの形成」に挑むというのはどうなんでしょうか。しかも、この方、これまでの事情をほぼ全て把握された上でのことです。明言されて絶句しましたが、その方の主観では「誠実にやっている(いた)」とのことでした。


 ぶっちゃけなことを言えば、この姿勢で「自分なら上手くやれる」と手を上げる方も上げる方だし、任せる方も任せる方だと思います。


 私はこの件について、それ以前の接点から「十分な前兆」があったので、担当交代に言及された当初から悪い予感しかしてませんでした。
 だから、初代担当には悲愴な思いを抱きながらも「この処置はやめてくれ」と訴え、更に「もし、やるとしても、その人選は望ましくない」との声は編集側に伝えていたのにも拘らず、部長判断で強行されました。
 そうして、予想通りとしか言いようがない綻びが実施後、早々に明らかになります。おかげで、私は以後「この処置は間違っている」とひたすら訴えを繰り返す羽目になりました。


 そうして結果どうなったかといえば、時間と労力を浪費して双方の間の亀裂を徒に深くしただけです。
「『この騒動にあの人が当初から何ら関与しなかったとしたら?』というIFだけでも十分に検討に値するのではないですか!?」
 と後に訴えたのですが、小山さんによればこの展開は「想定外」だったそうです。勘弁してください。
 
 ところで、この過程で理由はどうであれ、「これまでの経緯を踏まえた上で、編集側と創作のための論理的な対話が望めない」という結論を受け入れるしかないと悟りました。
 一方で過去のやりとりが蓄積していったことが、編集側との意思の疎通を妨げる新たな要因になっていました。

 そのため、こちらは「肩書きがどうであれ『事情を分かっていると言う人間』に何もかも任せるのはやめてほしい」、「事情を知らない人間であればこんな話になりません」など訴えるようになりました。


 そうした経緯を経て、小山さんが私の担当となるとのご自身の判断による決定をします。
 当時の私は心身磨耗しきっていたので頭を抱える余力さえありませんでしたが、白状すれば、この部長判断は意味が分かりません。
 小山さん自身はこれまでトラブルについて前面に出てくることはありませんでした
 ただご本人によれば、「報告を受けていて、事情を把握しているし、お前(水鏡)からの編集部宛のメールも転送してもらって、全てに目を通していた」と明言されています。

 担当をやられていた際に「私は自負心をもってやっている!」と言われましたから、この新たな『部長判断』は「水鏡はそう言うけど、自分なら大丈夫だから!」という小山さんの『自負心の強さ』かもしれません。
 リスクがあろうが挑戦することは悪いことではないと思うのですが、問題だったのは、この自負心のツケを誰が払うことになるかでした。
 散々「この処置はやめてくれ」というこちらの訴えに、「そうは言うが、私の判断の方が正しいから」と部長判断を強行して、結局、事態の悪化を招き、それを私がもろかぶりした上での、更なる小山さんの判断です。
 しかも、「部長の自分が担当になるんだから」と、私は担当交代を申し出る権利を一方的に奪われてしまいました。


 そうして、小山さんが担当になってしばらく後、とある会話により小山さんがトラブルに関して事実誤認をされていることが判明します。 
「報告を受けて事情を把握している。お前のメールも読んでいる」
 と明言されているのに、どうしてこういう事態が発生するかは私に聞かないでください。
 これより以前に「忙しいのに時間のかなりをお前のために割いてやっている」ととある話し合いの場にて出席された編集部の方から言われたのですが、その人は席上よく喋った割りに見当違いな意見が多々あって場は空転しました。
「私のためにかなりの時間を割いてくれていた、と言われたことがありますが、長時間、何を話し合ったら、あんな認識になるんですか?」
 と真剣に聞いてみたのですが、
「(関与した各人が事態を)わかってない」
 との答えしか小山さんからは得られていません。


 こうして「部長としての謝罪」へとなったわけですが、案の定と言うべきか、この時の話で小山さんには結構、事実認識に不足があることが明らかになりました。
「事情は分かっている。だから、もう説明してくれなくていい」 
 と(私には)言っていた方から、報告を受けているはずなのにです。

 ともあれ、「編集者として云々以前に社会人として問題があった初代担当」が引き起こしたトラブルは、こうして数年がかりで一区切りついたわけですが、これが、小山さんの認識である「全て解決」ではなく、私にとってはあくまで「一区切り」でしかなかったのは理由があります。


 一つ目は、
「自分の(部長)判断が誤りだった」
 と認識した上で謝罪されたはずなのに、小山さんの担当就任時の「温情扱い」は変わらず、私は「担当交代を言う権利は剥奪されたまま」の点でした。
 要するに、
「それまでのアウトの判定は誤審だった。謝罪する。……というわけで、ゲーム再開! アウトカウントはそのまま」
 状態だったのです。
 それに対して、
「ちょっと待って、それおかしいですよね?」
 と訴えても、
「(部長として)謝ってるじゃないか! まだ文句あるのか!?」
 でした。

 結局、この扱いは最後まで変えられませんでした。
「自分が担当になる時に言ったこと忘れてないよね?」
 小山さんが担当になったのは、そもそも『数々の自分の判断ミスが原因』で、しかもそれを後日に認められた上で謝罪されている事実は、通達を決断された時点で小山さんの頭からは綺麗さっぱりなくなっていました。
「そういう人事は避けて」との私の訴えを無視して、「自分なら大丈夫」とのご自身で判断されて担当となった責任についてもまた同様です。


 二つ目は、「部長としての謝罪の意義」でした。
 部下が巻き起こしたトラブルについて部長が謝罪したと言うと、相応に重みがあることと私も理解しています。
 しかしながら、実際に私に対して行われたことは、
「部長『も』部下のトラブルについて謝罪した」
 わけでは決してなく、あくまで
「部長が『トラブルを起こした部下本人の代わりに』謝罪した」
 でした。

 実際にどういうことかと言えば、
「上司(それこそ部長)が代わりに謝罪するという奇異な事態を招いていながら、張本人は『何ら省みることも改めるところもない』」
 という状態だったのです。 


 どうしてこんな不可解な現象が起こってしまうのか、私には不可解なんですけどね……。
 初代担当は、編集者としての技量、責任意識、社会人としての意識など何もかも不足してはいても、気位に限っては余裕で三人前はあったのだろうな、と言うしかなく。
 これで当人の不誠実な態度や振る舞いへの言及に
「部長として謝罪した意味を考えろ」
 といった反応を小山にされると、こちらとしては「言う順番と相手が間違っているのではないか(本人の態度が改まらないの放置してそれはないだろう)」と言いたくなるわけです。
 ちなみに「事情はよく知らないがお前に原因がある」など象徴ですが、トラブルを巡るやり取りで「言う相手が間違っている(理非を無視して、こちらを安易に批判したり、忍耐を強いる)」という場面は少なくなります。


 と、他ごとやりながら書いていたらなんだか長くなりました。
 ながら動作だとどうもいけません。
 

 続き別にします。