Steal Away: Spirituals Hymns & Folk Songs [Import, from US]
ヘンリー・"ハンク"・ジョーンズはミシシッピ州ビックスバーグで生まれて、ミシガン州ポンティアックに移った。そこで、バプティスト助祭であり材木検査官であった彼の父親は、3階建てのレンガ造りの家を買った。 ハンクは、10人の子供のひとりであり、音楽一家で育てられた。彼の母親は歌手であり、彼の2人の姉がピアノを習っていた。そして、彼の2人の弟サド・ジョーンズ(トランペッター)およびエルビン・ジョーンズ(ドラマー)も、世界的に有名なジャズミュージシャンとなっている。
ハンクも幼時からピアノを習っておりアール・ハインズ、ファッツ・ウォーラー、テディ・ウィルソン、アート・テイタム等の影響を受けるようになった。13歳までには、ハンクはミシガンとオハイオで演奏していた。グランドラピッズとランシングの吹奏楽団で演奏していた1944年に、ハンクはラッキー・トンプソンに会った。ラッキー・トンプソンはハンクにニューヨークのオニキス・クラブでホット・リップス・ページと働かないかと誘った。
ニューヨークでは、ハンクは、定期的に一流のバップミュージシャンの演奏を聞いて、新たなスタイルを習得に至る刺激を受けた。この頃のハンクは猛練習を平行する中、ジョン・カービー、ハワード・マギー、コールマン・ホーキンス、アンディ・カーク、およびビリー・エクスタイン、スタン・ゲッツ等と働き、それらの一部は、LPとして録音された。また、親友レイ・ブラウンとは、この当時から50年以上、膨大なセッションを行い、多くのLPで共演してゆく事となる。
1947年には、初のリーダーアルバム「Urbanity」を録音。またノーマン・グランツのジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)としてツアーを始めた。1948年から1953年まで、ハンクはエラ・フィッツジェラルドの伴奏者であった。そして、1948年の秋にイギリスで彼女の伴奏していて、並はずれたテイストと洗練されたハーモニーの能力を発展させた。
この期間、ハンクはまたチャーリー・パーカーと共にいくつかの歴史的に重要な録音をした。その中には「Now's the Time」に納められた"The Song Is You"も含まれている。この曲は、ベースのテディ・コティック、ドラムのマックス・ローチ等と共に1952年12月に録音されている。
また、ハンクとチャーリーパーカーとの共演は、ジャズ映像史上最大の発見とも言われる「インプロヴィゼーション」(DVD映像)にも残されている。この映像には、レスター・ヤング、コールマン・ホーキンス、エラ・フィッツジェラルドなどスターの多くが集まっており、ハンクがピアニストとして当時から厚い信頼を得ていた事が伺える。
1955年以降ますますハンクの信頼は増し、人気ピアニストとして、ポール・チェンバース、レスター・ヤング、ヘレン・メリル、ミルト・ジャクソン、フランク・ウエス他多くのスタープレイヤーとの録音もなされている。
親日派で知られるハンクだが、初来日は1957年、ベニー・グッドマン楽団のピアニストとして来日。
1959年から1975年は、ジョーンズは録音活動を続ける一方、CBSスタジオのスタッフピアニストだった。この時代にはエド・サリヴァン・ショーでフランク・シナトラ、クリス・コナー、ウェス・モンゴメリー、ビリー・ホリデー、ズート・シムズ、1960年注目を集めたA Portrait Of Duke Ellingtonでのディジー・ガレスピーとの共演も含まれ、引き続き多くの録音をし、TV出演する事もあった。
1962年5月19日、ジョン・F・ケネディ大統領の誕生パーティで、マリリン・モンローが歌った有名な「ハッピー・バースデイ」のピアニストもハンクであり、マリリン・モンローとは、LPでも共演している。
1970年代~ [編集]
ジョーンズの力強いソリスト、センシティブな伴奏者および情景を見る達人の類いまれのない組み合わせから、ジョーンズはいつもあらゆる種類のレコーディングセッションの強いニーズがあった。また、ブロードウェイ・ミュージカル"エイント・ミスビヘイヴン "(Ain't Misbehavin'(Broadway show))にピアニストと指揮者としての参加したことにより、1970年後半にはより多くの人にミュージシャンとしての優れた資質を知らしめた。
1970年代後半と1980年代の間も、ジョーンズは、実り多くレコーディングし続けていた。代表作の一つでCBS後、より新しいスタイルを確立し脚光を浴びた1975年のアルバム「Hanky Panky」(LP&CD)や、シェリー・マンらと鹿児島に来日した際のライブ録音「Live in Japan」、当時を代表される名演を残した「Portions」(LP)のほか、ジョン・ルイス、トミー・フラナガンとのデュオや、最も有名なグレート・ジャズ・トリオが含まれる。
グループは、1976年にこの名前を採用したが、それまでには既にジョーンズはオリジナルメンバーであるロン・カーターとトニー・ウィリアムスとヴィレッジ・ヴァンガードで演奏し始めていた。1980年までには、ジョーンズのサイドマンはエディ・ゴメスとアル・フォスターであり、1982年に、ジミー・コブがフォスターの後任になった。トリオはアート・ファーマーやベニー・ゴルソンやナンシー・ウィルソン等とも録音した。 ジョーンズは、1980年代前半にソロのピアニストとしてカフェ・ジーグフェルドで過ごし、日本でツァーを行った。日本のツァーではジョージ・デュヴィヴィエとソニー・スティット他と演奏し多くの録音した。
また、作曲家としてのジョーンズにも注目すべきであろう。自己主張の少ないジョーンズが自作品を演奏する事は少ないが、"Interface"、"Duplex"などキャッチーな作品のほか、"Minor Contention"(アルバム「Hanky Panky」に収録)など、掴めそうで掴みにくいオリジナリティ溢れる作品のほか、"Ah, Oui"など、ジョーンズらしいセンス溢れるコードワークとハーモニーを聴かせる作品、"Hank's Blues"のような予想を裏切るユーモア溢れるメロディ作品など、実に様々な作風を楽しませてくれる。ジョーンズは自作品に限らず作曲家のメロディを大変大切にすることでも知られ、メロディを崩さないまま、センスの高い豊富なコードワークと美しく巧みなハーモニーとタッチで、ジョーンズワールドを築き上げる。
2000年代以降 [編集]
2002年には、こういった作曲家としてのハンク・ジョーンズに注目した作品「Sublime: Honoring the Music of Hank Jones」が発売。ジョーンズを尊敬するチック・コリアらがジョーンズの作曲作品を演奏した。
その後も全世界で多くの演奏と録音を続け、2006年東京Jazzでは渡辺貞夫、チック・コリアと共演。2007年にはアルバム「Kids: Duets Live at Dizzy's Club Coca-Cola」がグラミー賞【Best Jazz Instrumental Album, Individual or Group】および【Best Jazz Instrumental Solo】でノミネート。
2008年東京Jazzでは、デイヴィッド・サンボーン、ロン・カーター、ジョージ・ムラツらと共演し、ドン・セベスキー編曲によるNHK交響楽団との共演も実現、この演奏はラジオでの生中継のほか、NHK BSでも放送され話題を集めた。同年にはブッシュ大統領よりアメリカ国民芸術勲章を授与。
2009年2月はグレート・ジャズ・トリオで来日、ブルーノート東京での演奏はBSフジの「Speak in Music」内で放送され、その人気から何度も再放送された。4月にはメトロポールオーケストラと共演。ハンクの作曲作品がフルオーケストラで演奏され、8月はGreat Jazz Trioで来日、東京、軽井沢、下関、大阪、岩手でツアー、帰国後すぐヨーロッパでツアー。2009年グラミー賞"Lifetime Achievement Award"も受賞。
2010年2月、東京ブルーノートではロイ・ハーグローヴ、TOKUらと共演。その後2月26日には下関のジャズクラブビリー、2010年2月28日には新潟市民芸術文化会館に集まった900名前後のファンの前で、生涯最期となるピアノを熱演。ファンへの思いやり、力強いステージワーク、ピアノに対する情熱は最期まで衰える事無く、アンコール後も、会場の入り口に登場し、サイン会を実施、200名近くの長蛇の列となり、すべてのファン一人ずつに声をかけ、握手し、サインを行った。
帰国後もスケジュールは1年先まで決まっている人気ぶりで、世界各国へのツアー準備をしている矢先、2010年4月に体調を崩し緊急入院、闘病の末亡くなった。
ハンクは、ファンに心配をかけない為、これまでも多くの重大な入院を乗り越え奇跡のカムバックを果たしても、ファンにその事を口にする事は無く、いつも優しく、謙虚なスタイルを貫き、最期までファンとピアノを愛し続けた。
努力の人であり、日々のトレーニングを欠かさず、移動中も握力を鍛えるボールを離す事は無かった。「200歳まで演奏を続ける」「練習は、1日休めば自分に分かる。3日休めばカミさんが分かる、7日休めば仕事が無くなる」が口癖だった。