元和三年(1617)江戸市内各地に散在していた遊女屋を現在の日本橋人形町、日本橋富沢町付近に集めたのが始めである。江戸期の町名でいうと難波町、住吉町、高砂町、新和泉町の4町がこれにあたる。この町名は昭和8年まで使われていた。吉原があった当時の町名は新吉原とほぼ同じで江戸町 江戸町二丁目 京町 京町二丁目(新町)そして開設2年後に出来た角町を加え5町があった。大門のある通りは仲之町と呼ばれ、現在ではこの通りを「大門通り」と呼んでいる。吉原のあった頃の名残りである。人形町2丁目の末廣神社は、吉原があった当時から元吉原の産土神(うぶすながみ)として、明暦の大火で移転後は難波町、高砂町、住吉町、新和泉町の産土神として信仰されており吉原以来の歴史を持っている。
江戸末の絵図でこの辺りを見ると東側には浜町堀が有ったが現在は埋め立てられ緑地公園となっている。町の南側には、かつて久松橋の傍から入堀があり「住吉町裏河岸」と呼ばれた。ここはかまどを作って売る者が多く「へっつい河岸」とも呼ばれていた。遊廓があった頃の元吉原の周囲は堀で囲まれおり、この二つの堀は元吉原以来の堀かと思われる。大門のあった北側や人形町通りの堀は江戸期すでに消えてしまったようである。吉原の西側にあった川に橋が無いのを不便に思い、吉原開設の労を尽くした庄司甚右衛門が幕府に願い出て作った橋と言われる親父橋、思案橋も川そのものが無くなり橋は消えている。西側の川である東堀留川は昭和二十四年に埋立てられている。親父橋の親父は庄司甚右衛門を指しているという。思案橋は遊廓に行く客の心情を表現しているものだという。吉原が浅草北に移転してから三百年近くもこの名称が残っていたのであるから面白いものである。
吉原移転後の旧町名で痕跡があるものに浪花町(難波町)が浪花会として今でも使われている。新和泉町近くにあった歌舞伎で有名な玄冶店は碑のみが人形町の交差点近くに残っている。