寺院の移転と見附の設置により、四谷地区の様相は一変した。 | ノイズのなぐさめ

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江戸時代以前には後の内藤新宿町のあたりまでを含めて潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原(よつやのはら)などと呼ばれるすすき原であった。

「よつや」という言葉が文献上に始めて登場するのは1590年(天正18年)に内藤清成が記述した『天正日記』である。清成がこの付近を調査する際に派遣した家臣の道案内をした角筈村の関野五郎兵衛が、別名「よつや五郎兵衛」と呼ばれていた。この「よつや」が何を意味するかは不明である。その後徳川家康が甲州街道と青梅街道を設置した際、その途中に設けられたのが四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)で、これが地名としてはじめてつけられた「四谷」である。

1634年、江戸城西北に外堀を設置することになり、立ち退きを余儀なくされた麹町地区の寺社群が四谷地区に移転しはじめた。須賀町・二葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはこの集団移転によるものである。外堀が完成したのは1636年。堀の岸は石垣で築かれ、併せて見附(警備のための城門)が設けられた。今日JR四ッ谷駅付近に見られる四谷見附跡(千代田区六番町)は当時の名残のひとつである。

寺院の移転と見附の設置により、四谷地区の様相は一変した。寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ、商人職人の活動が栄えた。これに加え、1657年の明暦の大火は江戸市街の三分の二を焼失するほどの規模だったため、大火を逃れ四谷地区などの外堀周辺に移り住んだ人も少なくなかったといわれている。四谷地区は徐々に江戸市中に組み込まれ、郊外地区から都市部へと変貌していった。

1894年、甲武鉄道(現在のJR中央線)の市街地延伸(すでに立川~新宿間は開通済み)により、四ツ谷駅と信濃町駅が開業。原材料や商品の輸送が容易になり、眞崎鉛筆(三菱鉛筆の前身)や岩井商会・村井商会の煙草など、四谷地区の製造業は飛躍的に発展した。