1881年、ナジセントミクローシュ(現在のルーマニア、ティミシュ県のスンニコラウ・マレ)に生まれる。母パウラはピアノ教師だったため、早くから彼女の教えでピアノを学ぶ。7歳の時、農学校の校長だった父が病気で死亡。10歳の時にはピアニストとしての初舞台を踏む。1894年、母と共にポジョニへ引っ越す。1898年にはウィーン音楽院に入学を許可されたが、友人のエルンスト・フォン・ドホナーニに従い、翌年ブダペスト王立音楽院に入学する。ワグネリアンの学長からワーグナーの洗礼を受けるが、ブラームスの影響を脱して先に進もうとしていた彼に、ワーグナーは答えをくれなかったと回想している。
1902年、21歳の時にリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはこう語った》に強烈な衝撃を受け、交響詩《コシュート》を作曲。1848年のハンガリー独立運動の英雄コシュート・ラヨシュへの賛歌であった為、当時ハプスブルク帝政の支配下にあったブダペストの世論を騒がせた。1904年には初めてマジャール民謡に触れる。
1905年、パリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。作曲部門では入賞せず、ピアノ部門では2位であった(優勝者はバックハウス)。自分の人生をピアニストとして描いていたバルトークは、優勝を果たせずかなり落胆したようである。しかし、ハンガリーでは知られていなかったドビュッシーの音楽を知るという収穫を得た。
1906年、コダーイに出会い、ハンガリー各地の農民音楽の採集を始める。1913年にアルジェリアへ赴いた他は、専らハンガリー国内で民族音楽を採集していた。
1907年、26歳でブダペスト音楽院ピアノ科教授となる。ピアニストとして各地を旅するのではなく、ハンガリーに留まったことで、更なる民謡の採集が進み、民謡の編曲なども行う。この時点でも、彼の大規模な管弦楽作品はまだブラームスやリヒャルト・シュトラウス、さらにはドビュッシーの影響を感じさせるものであるが、ピアノ小品や親しかった女性ヴァイオリン奏者シュテフィ・ゲイエルに贈ったヴァイオリン協奏曲第1番(ゲイエルの死後発表)の2楽章などでははっきりと民謡採集の影響が表れている。1908年の弦楽四重奏曲第1番にも民謡風要素が含まれている。
1909年、ツィーグレル・マールタ(Ziegler M??rta)と結婚。翌1910年には長男ベーラ(バルトーク・ジュニア)が生まれる。この年、フレデリック・ディーリアスと知り合っている。
1911年、バルトークは、ただ1つのオペラとなった《青ひげ公の城》を書き、ハンガリー芸術委員会賞のために提出したが、演奏不可能という事で拒絶された。結局この曲は1918年まで演奏されなかった。当時バルトークは、政治的見解から台本の作家バラージュ・ベーラの名を伏せるように政府より圧力をかけられていたが、これを拒否し、同時に公的な立場から身を引いた。その後の人生でバルトークは民謡への愛着は別として、ハンガリー政府や組織とは深く関わらないようにしている。芸術委員会賞に失望した後2、3年の間、バルトークは作曲をせず、民謡の収集と整理に集中していた。
1914年、第一次世界大戦の勃発により、民謡の収集活動が難しくなったため作曲活動に戻り、1914年から16年にかけてバレエ音楽《かかし王子》、1915年から17年には《弦楽四重奏曲第2番》を書いている(採集活動自体は1918年まで行っている)。1918年には《かかし王子》の初演が成功し、ある程度国際的な名声を得た。引き続き《青ひげ公の城》が初演され、これも好評を博す。同年、レンジェル・メニヘールトの台本によるパントマイム《中国の不思議な役人》を作曲開始する。
1921年から22年にかけてヴァイオリンのためのソナタを2つ書き、イェリー・ダラーニのヴァイオリンと自らのピアノで初演。更に彼女に同行してイギリスやフランスで演奏旅行を行う(この際、ラヴェルやストラヴィンスキーと会っている)。これはそれまでに作曲した中で和声上、構成上最も複雑な作品である。また民謡的要素を自分の作品の中で生かすということに自信を深めたのか、それまで編曲作品と自作を区別するために付けていた作品番号を、ソナタ第1番からは付けなくなった。
1923年、ツィーグレル・マールタと離婚し、ピアノの生徒であったパーストリ・ディッタ(P??sztory Ditta)と結婚。翌1924年には次男ペーテル(バルトーク・ペーテル、Bart??k P??ter)が誕生している(ペーテル(ピーター)は後年アメリカで録音技師として活躍し、父親の作品を中心に優秀な録音を世に出した。また楽譜の校訂にも大きな功績がある。)。
同じ1923年には、政府からの委嘱により、ブダペスト市政50年祭のために《舞踏組曲》を提出。この後、1926年にピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第1番などを発表するまで3年ほど作品を発表せず、演奏会活動にやや力を入れるが、1927年から翌年にかけて、彼の弦楽四重奏曲としてもっとも高い評価を受けている第3番と第4番を作曲した。またピアノ協奏曲第1番をフルトヴェングラーの指揮と自らのピアノで初演する。
1929年から30年にはアメリカやソヴィエトへの演奏旅行を行い、ヨゼフ・シゲティやパブロ・カザルスらと共演する。帰国後ピアノ協奏曲第2番を作曲。
1934年には、いくぶん伝統に帰った《弦楽四重奏曲第5番》を作曲。1936年、バーゼル室内管弦楽団を率いていたパウル・ザッハーの委嘱で《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》を作曲。翌年ザッハーの手で初演が行われた。1939年には《弦楽四重奏曲第6番》を作曲し、これがヨーロッパで書いた最後の作品となる。
同年に母が没し、第二次世界大戦も勃発。ナチス嫌いのバルトークはヨーロッパを去ることを考え始める。この頃、反ユダヤ主義者との対話の中で、自らの祖父がユダヤ人だったことを示唆しているが、実際はマジャル人とクロアチア人の混血であり、ユダヤ人の祖父はいなかった。また1917年にユニテリアン教会に改宗している。政治的に硬化していくハンガリーの情勢を嫌ったバルトークは、1940年春にアメリカ合衆国への演奏旅行の際、友人達にアメリカへ移住する打診を行い、10月にはブダペストで告別コンサートを開き、妻と共に不本意ながらアメリカ合衆国へ移住した。少々自己中心的で人と打ち解けるタイプではなかったバルトークにとって、アメリカは決して居心地は良くなかったし、ピアニストとして生計を立てるつもりだったとはいえ、作曲する気にもならなかったようでコロンビア大学で民俗音楽の研究に没頭する。
1943年、健康を害して入院。白血病に冒されていた。フリッツ・ライナーなどバルトークの友人たちの依頼で、当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者クーセヴィツキーが、自らの財団と夫人の思い出のために作曲を依頼したところ、驚異的なスピードで《管弦楽のための協奏曲》を完成。この依頼があって作曲への意欲が引き起こされたようで、ヴァイオリン・ソナタを演奏会で取り上げる際にアドヴァイスを求めに来て親しくなったメニューインの依頼で《無伴奏ヴァイオリンソナタ》にも着手し、1944年には両曲の初演にそれぞれ立ち会う。
1945年、《子供のために》や《管弦楽のための協奏曲》の改訂をする傍ら、妻の誕生日プレゼントにしようと軽やかで新古典派的な《ピアノ協奏曲第3番》、プリムローズから依頼された《ヴィオラ協奏曲》に着手するが、9月26日、残り17小節のオーケストレーション以外をほぼ完成させた《ピアノ協奏曲第3番》を遺し、ニューヨークのブルックリン病院で没した。死因は白血病であった。医療費は彼がたった100ドルの薬代も払えなかったので、作曲者・著作者・出版者の為のアメリカ協会 (the American Society for Composers, Authors, and Publishers) が負担したという。遺体はニューヨーク州ハーツデイルのファーンクリフ墓地に埋葬されたが、40年後の共産主義体制の崩壊後、指揮者ゲオルグ・ショルティらの尽力で亡骸が1988年7月7日ハンガリーに移送され、国葬によりブダペストのファルカシュレーティ墓地に埋葬された(ファーンクリフには記念碑が残されている)。
未完のままの《[ヴィオラ協奏曲》は、友人でハンガリー系の作曲家タイバー・セアリー(シェールイ・ティボール、S??rly Tib??r )によって完成された。彼をバルトークの「作曲の弟子」と紹介している文献が多いが、作曲を教えなかったバルトークにはピアニスト以外の弟子はおらず、音楽理論を教わった弟子である可能性が高い。