誰しも1度は考えた事があるだろう。
自分は必要とされているのだろうか。
自分のいる意味はあるのだろうか。
果たして自分とは、わたしとは、その在るべき意味とは。

これを書いているわたしにだって元来その意味などなく
これを読んでいるあなたにだって元来その意味などない

在ることに意味があるのではなく無いことに意味がある。

在る事は失う事だとこれを書いているわたしは思うのだ。
こと、地に足をつけて四つん這いから二本足の半分になった私達はたくさんの何かを犠牲にして今を生きている。

生まれてすぐに地面から半分身体を離した私達に一体何があるというんだろう。

「ああ、何も起こさず一日を終えた」
「ああ、今日も一日何も生まなかった」
そう考える人間の思考もわからないではないが「何かを生まなかった事を理解している」と考えればずいぶん賢い。

「普通に起きて普通に食って普通に過ごして普通に寝る」
満足にこれが出来るのは生命の特権なのだ。
誇れよ有機生命体。これが生きるという言葉の熱量、カロリー、そのありのままの姿。
屁理屈、怠慢、煙に巻く。何とでも言うといい。
世界はきっとそんな何も生まない時間で出来ている。

何も無いのは失う犠牲を伴わないという事なのだ。
ならば振り返ったとしても追いかける亡霊も存在しない。
亡霊に対して存在しないというのはいささかシュールではあるけれどそれはこの際触れない事にしよう。

何が言いたいのかなどはこの文末にしっかりまとめておいたように錯覚しておこうかと思う。

在ることはとても尊いのだから両手でしっかりと掬い上げ
無いことはいつだって両足を置く位置を教えてくれる。

世界にあるのはきっとこれだけの事実なのだとわたしは思う。