先日の相模原の事件はとても痛ましく辛いものでした…
被害に遭われた方々のご冥福と、幸いにも一命を取り留められた方々の1日も早い快復をお祈りいたします。
そして家族の方の御心も少しでも癒されることを願って止みません。
僭越ながら、この事件に思うところがあり筆を取ることにしました。
障害者施設の元職員による犯行であったことは、社会に衝撃を与えたという報道に感じました。
確かに元職員ではあるのですが、私は当該施設の運営者や元職員自身に違和感を感じました。
報道では、元職員は「施設で働き始めた当初は重度の障害者に対してふびんな感情を持ち仕事をしていた」と述べているらしいですが、そして「しかし、接して行くうちに彼らのゴールはいったい何かと考えるようになり、抹殺することが最善と思い立った」とこれはどう言う意味合いなのでしょうか…
私には初めは良い職員だったのが、段々おかしくなっていったと言う様に読み取れましたが、いくつか疑問があります。
先ず障害者は本当に不憫なのでしょうか?
可哀想な存在なのでしょうか?
出来ないことがあるからですか?
分からないことがあるからですか?
経済活動に不足することがあるからですか?
その人たち一人一人が持つ可能性や誰にも代えられない良いところは全て無視ですか?
私は障害者です。可哀想だから守ってくれとは考えていません。
ましてや誰かに人生を決めて欲しいとも思っていません。
次に本当に犯人は初めは良い職員だったのでしょうか?
利用者を不憫という眼差しでみて、知らず識らずのうちに偏見に繋がっていったとも考えられますが、敢えて書きますが元々、差別や偏見の持ち主であったとも考えられます。何故なら取り調べと言う場で、不憫と言う言葉を使い自己弁護を行っていると感じるからです。
また施設の方は仕事上での元職員のそういう一面を見ておきながら、気づかなかったと言う鈍感さ…これにもガッカリです…
障害者は不憫。これは日本社会の共通認識なんでしょうか…
皆さんは、ノーマライゼーションと言う言葉はご存知でしょうか?
簡単に言うと、障害のある無しに関わらず皆んなが一人の人間として尊重し合う社会と言うような概念です。
例えば、足に障害のある方は歩くのが困難な場合もあります。助けが必要な場合もあるでしょう。
敢えて書きますが、健常者の場合でも家の水道が壊れたとします。自分では直せない方が多いと思います。
また特に女性の場合は重い物を持ったり、高い所の物を取ることは困難だと思います。これらの場合、助けが必要ですよね?あくまでもこれは一例です。
誰もが全てを完全に出来るわけではありません。誰かが誰かを助けあって社会は成り立っているとは言えませんでしょうか?
障害者は不憫。
健常者はいつまでも永遠に健常者であると誰が保証できるのでしょうか?
明日、事故に遭うかも知れません。
病気になるかも知れません。
障害者になるかも知れません。
本当に他人事なのでしょうか?
先天性の障害者より、後天性の障害者の方が多いと言う事実はご存知でしょうか?
この拙い私の文章で何処まで言いたいことが伝わるか分かりませんが、書かずに居られませんでした。
もし良かったら皆さん、一度考えてみて貰えませんでしょうか?
皆んなが幸せに生きていける社会はきっとあると信じています。
最後まで読んで頂きありがとうございました。もし宜しかったらイイねを貰えると嬉しいです。よろしくお願いします。