私はうさぎ年である。
この歳で、家を二軒、建てた。ちょっと自慢したい。
ただ、支払いはともかく、名義はほんの少しだけ、私にしてある。(笑!)
この歳で、家を二軒、建てた。ちょっと自慢したい。
ただ、支払いはともかく、名義はほんの少しだけ、私にしてある。(笑!)
最初に建てた家は、キッチンの水道の蛇口、下に倒せば水が出る。
次に建てた家のキッチンは、上に上げないと水が出ない蛇口になっている。
次に建てた家のキッチンは、上に上げないと水が出ない蛇口になっている。
違いは何か。
そう、阪神淡路島の震災を境にして、レバー式の蛇口の仕様が変更されたことだ。
地震で上から物が落ちたとき、レバーを倒して水が出っぱなしになることがないよう、
あの震災から仕様が『蛇口のレバーを上げたときに水が出る』よう、変更されたようだ。
地震で上から物が落ちたとき、レバーを倒して水が出っぱなしになることがないよう、
あの震災から仕様が『蛇口のレバーを上げたときに水が出る』よう、変更されたようだ。
今では、新しい家での生活が長くなるにつれ、実家の水道が使いづらくなってきた。
あの震災から、16年。
当時、私が仕事で手紙のやりとりをしていた大阪大学の先生があの震災で亡くなった。
Eメールなど完備されていなかった当時、仕事のやりとりは電話か郵便が常だった。
私は先生とのやりとりを任され、何度かその名前を封筒に記入した。
当時、私が仕事で手紙のやりとりをしていた大阪大学の先生があの震災で亡くなった。
Eメールなど完備されていなかった当時、仕事のやりとりは電話か郵便が常だった。
私は先生とのやりとりを任され、何度かその名前を封筒に記入した。
先生が亡くなったのが確認されたのが震災から3日後のことだった。
亡くなった話を初めて聞かされたとき、急に震災の被害を身近に感じた。
亡くなった話を初めて聞かされたとき、急に震災の被害を身近に感じた。
私は1985年、地元茨城の科学博覧会(筑波万博)でアルバイトをしていた。
アルバイトをしていたお店は、結果的に利益率で博覧会場第二位のお土産屋さん。
アルバイトをしていたお店は、結果的に利益率で博覧会場第二位のお土産屋さん。
名前は「玉手箱」という、ある旧財閥系グループ会社が主催したお店だった。
私はそこで商品管理を任され、当時としては破格のお給料をいただいていた。
事実、その後私が就職して、その給料に追いつくまで3年が必要だったのだ。
私はそこで商品管理を任され、当時としては破格のお給料をいただいていた。
事実、その後私が就職して、その給料に追いつくまで3年が必要だったのだ。
そのお土産屋さんで一緒に働いていた方々が、まさしく『関西系』の方々で。。
まず、商品管理を含め、店舗プロデュースを任されていたのが大阪電通。私はそこに所属していた。
主催者である旧財閥系グループ会社の本社はもちろん大阪。
一番仲良くしてくれた年上の女性の実家が東灘区。(コレには後日談も。。笑!)
まず、商品管理を含め、店舗プロデュースを任されていたのが大阪電通。私はそこに所属していた。
主催者である旧財閥系グループ会社の本社はもちろん大阪。
一番仲良くしてくれた年上の女性の実家が東灘区。(コレには後日談も。。笑!)
震災のあと、皆のその後の消息が気になって仕方がなかった。
被災者リストも何度か見てみた。知っている名前は見つからなかった。
でも、それまで連絡が取れていた人たちと、急に連絡が取れなくなった状況がしばらく続いた。
でも、それまで連絡が取れていた人たちと、急に連絡が取れなくなった状況がしばらく続いた。
筑波での約7ヶ月、一緒に働いていた男の子がいて、彼とは一歳違いで、感性は全く違っていたが、
結構気が合い、一緒に遊びに行っては門限破りも常習で、一緒に怒られていたことも今では懐かしい。
結構気が合い、一緒に遊びに行っては門限破りも常習で、一緒に怒られていたことも今では懐かしい。
彼はちょっと変わった名前と、絵が上手、というのが印象的だった。
バイトも終わりの時期、彼は日本映画に興味があったこともあり、
当時ではちょっと微妙な「8mm撮影機」を入手していた。
バイトも終わりの時期、彼は日本映画に興味があったこともあり、
当時ではちょっと微妙な「8mm撮影機」を入手していた。
一度だけ、私の街にも遊びに来てくれた。
一度だけ、絵はがきをくれた。今ではその絵も、ある意味、『お宝』なのかもしれない。(^^ゞ
彼を含め、当時親しかった方々の名前をインターネットで検索し、思い当たるそばからメールを送っていた。
旧財閥系グループ会社の当時次長だった方が取締役になっていたことが判り、
メールを送って返事もいただいた。
ただ、その『絵が上手な彼』の消息を訪ねたあと、返事が来なくなってしまった。
メールを送って返事もいただいた。
ただ、その『絵が上手な彼』の消息を訪ねたあと、返事が来なくなってしまった。
私は。。
「彼も、あの震災で、亡くなったのでは。。」
と、勘ぐっていた。それから、4年。
時代は、インターネットやEメールだけでなく、いろいろなコミュニケーションツールを生み出した。
時代は、インターネットやEメールだけでなく、いろいろなコミュニケーションツールを生み出した。
私は、興味本位で始めたTwitterで、絵が上手な彼の名前を検索してみた。
すると、見事、その姓名まで入力した検索ワードにヒットしたのである!
すると、見事、その姓名まで入力した検索ワードにヒットしたのである!
その彼に。。
『私が知っている『あなた』は1985年、茨城にいました。たぶん同姓同名の別の方だと思いますが、とても懐かしく思いフォローさせて頂きました。25年も前のことですが、消息が途絶えており今頃どうしているのか、とても気になっております。っが、独り言なのでスルーOKです。(^^ゞ』
と、ダイレクトメッセージを送った。すると。。
『はい。その通り。つくば博の時、一緒に仕事させてもらった『わたし』です。お元気そうでなによりです。
あれから25年。いまや45歳ですw。いやあ、お懐かしい。』
あれから25年。いまや45歳ですw。いやあ、お懐かしい。』
と、帰ってきたじゃないですか。。彼は生きていたんです!
彼は、あるメジャーなゲームソフト会社に在籍し、映像関係の仕事をしていたんです。
ちょっとのやり取り後、昨年暮れに発売されたあるゲームソフトのイベント映像に大きく関わっていたことが判り。。
ちょっとのやり取り後、昨年暮れに発売されたあるゲームソフトのイベント映像に大きく関わっていたことが判り。。
ゲーム好きの私も、ちょっと気になったのでそのソフトを購入し、今、少し遊んでおります。(^_^)v
オープニングムービーにはしっかり彼の名前がクレジットされており、25年前のあのときでも
何かしらやらかすのではと半分期待していた彼が、元気でがんばっていたことが確認できたのです。
何かしらやらかすのではと半分期待していた彼が、元気でがんばっていたことが確認できたのです。
私はここ数年で、大事な友人知人を数人失ってきましたが、
再会を含めて、新しい出会いもあったんだな、と改めて実感しております。
再会を含めて、新しい出会いもあったんだな、と改めて実感しております。
16年前の大きな震災があったこの日に、その思いを綴っておこうと思います。