第二バチカン公会議その1 概要~「典礼憲章」 | Verbum Caro Factum Est

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僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

第二バチカン公会議は20世紀のカトリック教会においてもっとも重要かつ重大な出来事だ。

第二バチカン公会議に関する文書やWebページは数限りなくあるし、そちらの方が正確で詳細に報告されているので是非そちらを参照しつつ学ばれたい。このブログではなるべく短くその背景と意義、今日的な影響などについて述べたい。とはいいながら、あまりにも膨大なテーマなので何回かに分けて書いて行きたい。今回は公会議の簡単な概要と「典礼憲章」という公会議文書が何をもたらしたのか大まかに書いてみたい。


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この公会議は1962年~1965年まで開かれた第二バチカン公会議は、ヨハネ23世によって開かれ、同教皇の帰天(逝去)後に選出されたパウロ6世が後を継ぐ形で引き継いだ。

トリエント公会議から300ぶりに行われた第1バチカン公会議(ピオ9世により1869年召集)では近代主義を退ける(=スコラ哲学の堅持)ということと、教皇の教導権(教皇の首位権と教皇座宣言=不可謬権と呼ばれる)のみが決議され、戦争(普仏戦争)によって中断された。その後の歴代教皇たち(ピオ11世、ピオ12世)はこの公会議を終結させるために公会議召集を試みたが、教会に混乱をきたすという理由で賛成を得られず成しえなかった。現代においても終結していない公会議である。

第二バチカン公会議には直接関係ないが、教皇座宣言エクス・カテドラ(教皇不可謬)は誤解されやすいので簡単に説明したい。

これは「教皇の言うことは何でもかんでも正しいく間違いがない」という意味ではなく、教皇座(カテドラ)から(エクス)正式な手続きを踏まえかつ荘厳定式に則って発令された教義のみ不謬であり、そこから離れることはカトリックではないと宣言する、というものだ。

実際にこれが行使されたのはピオ12世が「聖母被昇天」の教令を発布したこの一回限りである。「聖母無原罪の御宿り」の教義はそれ以前のものであり、実際のエクス・カテドラではなく遡って適応されたもと考えられている。余談だが、この教義が発令された時、聖母の連願の中に「被昇天の聖母」という言葉が加えられ、田舎の教会でも厳かに「被昇天の聖母、我らのために祈り給え」と皆で唱えたという(亡くなった祖母が言っていた)。


1958年ピオ12世が帰天し、コンクラーベ(教皇選挙)が行われた。ヴェネツィアの総大司教アンジェロ・ロンカリが新教皇に選ばれた。新教皇ヨハネ23世は就任時76歳で、過去200年の中では最高齢であったため、次の教皇までのなかつぎの教皇と言われていた。実際コンクラーベで次の教皇を選出しにくい事情がある時は比較的高齢かつ穏健な者を一度選出し、その間に次の教皇の目星をつけると言われている。老齢だと長期ビジョンを立てることは困難であからだ。だが、なにもしないだろうと思われていたこのヨハネ23世が公会議を召集することを宣言した。

言い伝えられている逸話では、17人の枢機卿の前で公会議を召集することを告げた時、枢機卿たちから「畏れながら教皇様、公会議の準備には少なくとも50年かかると言われております。その時まで教皇様はお待ちいただけますか(ご存命でらっしゃるのでしょうか)?」という嫌味に対して、「わかりました。あなたたちは優秀な学者だと聞いています。ついては四日で準備してください」と切り返し、その部屋の窓を開けて「このように教会にも風が吹き込まなければならないのです」と言ったそうだ。これはあくまでも言い伝えで事実かどうかはわからないが、この公会議を象徴するエピソードだ。実際は2年の準備期間が持たれた。


まず、この公会議は従来の公会議と違って教会の教義の決定や倫理上の問題の解決のためのものではなかった。300年間変わらなかった教会がどのように「今日化(アジョルナメント)」し、宣教司牧にあたってどのような目標を与え、そのために何をなすかということを具体的に決定していくものであった。近代主義を退けたカトリック教会はその神学にもはや近代主義を援用したり近代主義そのものである現代への適応が難い。そこで考え出されたのが「今日化」という言葉と発想である。

教会の自己規定、すなわち教会とは何かということを、教義の変更なしに今日化させ時代の変化に即応するためには、どのようにそれを再び規定しなおすか、というのも重要なテーマである。またヨハネ23世教皇自身、エキュメニズムに関心が開かれていたこと、そしてスコラ神学に偏った発言をしないように婉曲にではあるが発言していたことも注目に値する。

第二バチカン公会議を取り巻く神学者たちは様々なスタンスの人々がいた。スタンスといってもカトリックなので基本的に教会が与えるニッチのなかにおいてのスタンスだが、この人々の神学の幅は実に広く、またこの同時代にコンサバティブ・リベラル共にラディカルな神学者たちが集まっていた。

それを偶然と呼ぶこともできるし、聖霊が吹いたと言うこともできる。

保守派は検邪聖省(現・教理省)長官代理オッタヴィアーニ枢機卿、マルセル・ルフェーブル大司教(公会議後にローマの任命なく司教叙階を行い、聖ピオ十世司祭兄弟会を組織しトリエントミサのみが正しいミサだと主張)、対してリベラル派と見なされていた神学者たちは、アンリ・ド・リュバック、ヨーゼフ・ラッツィンガー(現ベネディクト16世教皇)、イヴ・コンガール、カール・ラーナー、エドワード・スキレベークスなど剃刀のような神学者ぞろいである。

保守的かつ膨大な草案は見直され、保守陣営による公会議の各委員会委員はすべてリベラル派の人々が選ばれた。これも教皇の後押しによるものと言われている。こうしてほとんどの議題について伝統的表現を守りながらも保守的草案を破棄しリベラル派の委員によって作りなおされたスケマ(草案)によって会議がもたれた。

この公会議の初めに話し合われたのは(委員の選出や草案の承認などを除いて)「典礼について」である。保守派にとっては一番変えたくないもので、リベラル派にとってはまず検討しなければならない事柄であった。つまり、公会議中もっとも進歩的な草案が一番初めに話し合われたことに大きな意味がある。すなわち、典礼についての議論は、前提となる教会論とキリスト論についての見解がどちらの側からも再確認されなければならず、さらにこの二つの神学的考察は、公会議中の議題すべての根底に流れているものだからである。

1963年、教皇ヨハネ23世が帰天し、後任のパウロ6世に引き継がれた。保守派とリベラル派の神学的かつ政治的な対話とやりとりが繰り返された第二バチカン公会議は準備期と第四会期を経て閉会する。パウロ6世は閉会挨拶の中でこのようなことを言っている。

「しかし、ここで次のことに注意しなければなりません。教会は特別の教導権によって、特別の教義を定義しませんでしたが、多くの問題について、現代人の良心の基準となり、行動の原理となる事柄を権威をもって教えたのであります。そのうえ教会は、現代人と対話を始めたのであります。常に自己の権威と力を保持しながら、司牧的愛に特有な親切と友好的態度をとったのであります。全ての人が教会に耳を傾け、教会を理解することを望んだのです。そのため知識階級の人々だけが理解できるような表現ではなく、普通一般に用いられている表現を使ったのであります。更に人々の心をひきつけ、人々を説得するために、生活体験や人々の心に呼びかけたのであります。すなわち、教会はあるがままの現代人に話しかけたのであります。」

このパウロ6世教皇の演説は名演説だ。だが近年の教会がおこなっている、公会議前からの保守派の引き戻しや、保守派アングリカンの囲い込みなどばかりに(ばかりでもないのだが)目が言ってしまい、真の意味で、この現代、今日、人々と対話し、生活体験や心に呼び掛けているのだろうか、と疑ってしまう。現場レベルで応えようとしている司祭・修道者・信者は確かにいるが、どうしてもそれを教会が認めて行かなければいつまでたっても対処療法的かかわりなのではないだろうか。教会の世俗化と今日化は確かに違う、だが、それを見分けているのに足踏みしている間に社会はますます変化していく。

この公会議での保守派を支持する人々は、この後も今に至るまでこの公会議を批判しつづけ、この後で述べるパウロ6世のミサ(新しい式文=ノブス・オルド)や他の秘跡(サクラメント)執行のフォルマも無効であると主張している。僕個人としては関心はない。人の「宗教」にとやかく言うつもりはないからだ。

一方、現教皇は公会議の精神が活かされていないこと、教義は保ちつつ表現は時代によって変わり得ること、正しい解釈法が必要なこと、二つの解釈法が反目しあうことにより公会議の精神を実行することが困難になっている、など多くの分析・批判をしている。

現教皇は保守的だとよく評されるが、実は、神学的にはかなりラディカルであるし、この公会議でのリベラルな教父たちを神学的にサポートした重責を果たした一人はこの人である。倫理面はかなり保守的だが。

さて、第2バチカン公会議は16の文書を公表した そのうち憲章呼ばれる4つの文書が最も重要で基礎となるものである。その一番初めに出されたのが『聖なる典礼に関する憲章(Constitutio de Sacra Liturgia Sacrosanctum Concilium:SC、または典礼憲章と略す)』である。なぜ初めに発表されたのか。それは簡単である。初めに話し合われるべきことがらであり、教会の命でありキリスト者生活の命であり宣教の命にかかわる問題だからである。なぜなら、教会はまぎれもなく「礼拝共同体」だからである。

この憲章の中は7つの章からなり教会の聖なる典礼に関する公会議の方針が書かれており、その冒頭にはこのようにある。ここにまず公会議の精神がどのようなものかがうかがえる。


「司教パウルス 神のしもべたちのしもべ
 公会議の諸教父とともに
 ことを永久に記念するために

1 キリスト教生活を信者のうちに日々豊かなものにし、変更可能な諸制度を現代の必要によりよく順応させ、キリストを信じるすべての人の一致に寄与することすべてを促進し、また、すべての人を教会のふところに招き入れるために役立つ、すべてのことを強化しようと望む聖なる公会議は、典礼の刷新と促進について配慮することも特にその使命であると確信する。……」

『神のしもべたちのしもべ』とは教皇のタイトルである。

この冒頭の言葉の後に教会の秘儀における典礼の位置、典礼刷新の原則と基準、典礼様式に関する見解を述べた後、1:典礼刷新と促進のための一般原則、2:聖体の聖なる秘儀、3:その他の秘跡、および準秘跡、4:聖務日課、5:典礼歴年、6:教会音楽、7:教会芸術と教会用具について順次述べている。

公会議中の典礼に関する中央準備委員会のなかでの討議の際、自国語のミサと教会音楽について提案された時、前述のルフェーブル大司教は「典礼と典礼様式に関して、司教評議会が法規を制定することができる、という原則が受け入れられると、それがたとえ教皇の承認をもってはじめて許可されるとしても、民族的典礼と国民典礼様式とに回帰してしまう、典礼の一致のための過去の二世紀のすべての努力が無駄になってしまう、芸術とグレゴリオ音楽は没落する、無秩序状態になる危険がある」と指摘した。

何をもって無秩序というのかといえば、ラテン語と決められた所作とグレゴリオ聖歌の伝統が破棄される、ということだ。ラテン語のミサ、しかもトリエントミサを遵守することにプライオリティーを置くのなら、今のカトリック教会の典礼は見事に崩壊し芸術とグレゴリオ音楽は没落した。

だが、典礼の一致といっても一致の意味するところをどこにもとめるかで、一致そのものはくずれない。というのも、同じ言葉と音楽による典礼を共有するという一致と、教皇の教導権を認める上での各国司教団の教導職によって翻訳されたミサによる一致では一致という神学的概念の枠組みが違うのだ。ローマ・カトリックというものをどのように受容し一致するかのパラダイムそのものが違う。

結果としては、ローマ規範版の新しいミサ典書を自国語に翻訳し、聖座の許可を得た後に使用するということになった。これはラテン語を理解しない人々、特に宣教国にとって、典礼の積極的参加を促す上で非常に重要な出来事となった。ミサにはじまり、各秘跡と準秘跡の儀式書、聖務日課書が翻訳され、現場で使われていくようになった。

典礼刷新後、長年、会衆がラテン語を理解できることが前提で教区裁治権者(司教)の許可がある場合に限り、すべてラテン語で捧げられるミサは許されていたが、近年、許可なしにすべての司祭がラテン語の現行のミサとトリエント公会議で定められたミサの両方を捧げることが出来るようになった。僕個人としては典礼のバリエーションが豊かになったと思う。と同時に、教皇の方が何枚も上手だな、と思う。

と言うのも、一部のトリエントミサ信奉者は、トリエントミサを認めないから第二バチカン公会議は正しくない、エクス・カテドラ(教皇座宣言)ではないから批判してもよい、当時の教皇の文脈で解釈するものである上で当時の教皇が正しくないので有効ではないと盛んに反論していたのだが、教会にミサを許可なしで捧げることもそれに与ることも公に認可されてしまった以上、公会議を批判することはできなくなってしまった。

何れにせよ、自国語のミサが捧げられ、自国語のミサ通常文を歌うことが出来るようになったのは典礼刷新における大きな収穫である。ギターで伴奏がされるのが心地よい人もいれば、オルガンの響きが心地よい人もいる。心地よさというものは人が規定するものではない。もちろん、典礼憲章的に教会音楽での伴奏楽器の首位を占めるのはオルガンだが。首位を占めるのと必ず使わなければならないという意味ではない。

現行のミサ形式は、ローマ典礼を基にする多くの教会の礼拝学に大きな影響を与えた。ミサオルド(式次第)だけでなく、奉献文や集会祈願(特祷)は他の教会にインスピレーションや影響を与えている。

身近な例だと、日本聖公会の祈祷書が文語から口語に改訂する際、トリエントミサに近い形式の文語聖餐式をそのまま口語化せず、現行のローマ典礼様式のミサの形式から大幅に取り入れている。文語聖餐式の代祷はトリエントミサの奉献文に含まれる教会と教皇・司教のための祈りの形式に近かった司祭による祈りだったが、現行のミサで取り入れられた共同祈願(信者の祈り)の形式に近い形のものに改訂されている。またカトリックの集会祈願にあたる特祷も現行のミサ典書を参考にしたものが多く、聖奠的諸式なども訳語などもふくめ影響を受けている。

そのほかに、以前は年間通して決められていた聖書朗読箇所のバリエーションを増やすことと、それらも自国語で読む許可が与えられたことは特筆すべきことがらである。

というのも、以前のミサでは司祭が定められた使徒書と福音書と最後のヨハネ福音の冒頭をラテン語で唱えていたのだが、それらが改変され、聖書朗読を原則として、1:旧約、2:使徒書、3:福音の三箇所とし、最後のロゴス賛歌を省いた。これに合わせ、このミサと教会歴年の原則に即した朗読配分の研究が要求され、現在のミサで読まれる3年周期の主日朗読配分と2年周期の週日朗読配分が発表された。これは典礼学のみならず、聖書学、教会論、キリスト論のさらなる深化(進化というより)と言える。

この朗読配分は、ローマ典礼様式の全カトリック教会で採用され、さらに他の多くの教派・教会に影響を与えている。聖公会などは英国の場合は同じものを採用し、米国聖公会ではこれをベースに祝日などで朗読配分を若干違う箇所に編集し用いるなど大きな影響を受けている。


まず典礼だけでも、第二バチカン公会議の影響は現代のカトリック教会だけでなく、他の多くの教会の礼拝に対しても大きな影響をもって受け容れられたといえるだろう。

「典礼憲章」について述べるだけでも多くのページが必要となるくらい「豊かな」内容である。是非ご一読されたい。


次回以降は「教会憲章」における教会の自己規定や「現代世界憲章」における「人格の尊厳」などから思うことを記したい。



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