招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。 | Verbum Caro Factum Est

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僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

時々、福音を読むのが辛くなる。

というのも、次の主日に読まれる福音についての記事を書こうとして、聖書に目を通したのだがマタイが強調する言葉や意味するところのものを読み取ろうとすればするほど、一貫した「神の選び」に打ちのめされるような思いがするからだ。

この福音では、王が王子のための婚宴を一緒に祝ってくれるように人を招くが、人々はその晩餐の重要さ、その晩餐に招かれたことの重大さ、そして招いた王がどのような意向を持った方なのかを理解しようとしない。3節ではただ「来ようとしなかった」とだけ述べられ理由は述べられていない。4節ではその晩餐の主催者が誰で、どれだけ心を傾けた上等な晩餐かも述べているのに、人々はそれを無視した。自分の用事を優先したのではなく、王の招きに意味を見出さなかったのだ。

そう考えると、町の大通りで見かけた人だれでも声をかけたのにもかかわらず、礼服を着ていなかった人を縛り上げ追放するという一見不条理な王の行動に意味が込められていることが見えてくる。一度目の招きを断った人も、二度目の招きに意味を見出さなかった人も、共通して言えるのは王がどのような意向を持った方なのかを見抜いていない。

もちろん、この段落だけでは王の意向は見えないし、マタイがイエスを引き渡し十字架につけたイスラエルの宗教指導者やイエスと思いと行いを共にすることに意味を見出さなかった人々を、イエスのたとえで語っているのだが、宗教指導者のイエスへの無理解が主題ではないように思う。

というのも、手当たりしだい招かれた人々も、その晩餐の重要さや上等さを理解している。礼服を着るというのは文字通り礼服を着るのではなく、招いた王が誰なのか、どういう意向を持っている方なのかを分かっている者のことを礼服を着ていると表現している。つまり、礼服を着ていないというのは、そんな時間がなかったというのではなく、王の招きに対しその重みを軽視している、軽んじている、ということだ。すなわち、はじめに招かれ無視した人々と同じように、王の招き、その王子の晩餐に意味を見出していない、ということだ。

21章31節でマタイはこのように綴っている。

「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

王の招きに応え、選ばれるのはいわゆる善悪で左右されない。イエスが言うように、義の道、すなわち、痛みを負っている人々への神の共感、苦しみの最中にある人々への神の同伴、だれからも省みられず蔑まれ馬鹿にされる痛みのうちにある人々こそ神がもっとも寄り添いたい人々であり、実際、徴税人や娼婦というユダヤ社会のなかで低められ差別され、そのくせ自分たちはしたくない仕事を押し付けられた痛みを負った人々が、その義の道へ信頼して神の愛へと身を起こした。

「神の選び」がどこに向けられているのか、聖書を通してしっかりと読み直す時、自分が礼服を着た者ではないことに気付かされる。もちろん、痛みを負っている部分、社会的に弱い立場など、ある程度の人々に共通して言えることなのだが、その中でも最も低められ、しんどい思いをしている人々にこそ、神の愛は注がれ、そのことを告げるためにイエスは寄り添うのだ。だから、自分のなかに、神に寄り添って欲しい部分と、わたしたちが行ってイエスがされたように共に歩みそこで注がれる神の愛に共に与るものとされるという二つの属性があるように思うのだが、はたして自分自身本当に低められ、もっともしんどい思いをしている者なのかが同時に問われる。

問われることはしんどい作業だ。自分自身の理解を超える出来事や人々がいることも事実であるし、「共にいます」「理解します」と口で言うことは簡単なのではないだろうか。

きっと、その自分自身を問う作業のさなかに、イエスは共にいてくださるにちがいない。その時、町の大通りで呼び止められた義人か悪人かもさだかでないわたしたちは、礼服を着た者として招かれてゆくのではないだろうか。だから、ある意味、洗礼を受けキリスト者となり教会に通うということだけでは、招いて下さった方がどんな方なのか、どのような意向を持って招いておられるのかを、理解していないのかもしれない。だから、招かれる人は多いが選ばれる人は少ない、というイエスの言葉がひしひしと重みのある言葉として感じられるように思う。まず自分自身「神の選び」にそって問い直すことへと招かれているということを、心にとめ、ありのままの自分自身を受け入れ、すこしでもその招きへと開かれていく者とされる恵みを切に願いたいものである。


22:1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。
22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、
22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」



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