聖ヨゼフと初誓願とオカンとオトン | Verbum Caro Factum Est

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僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

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今日は聖ヨゼフの祝日だ。私的なことだが僕の亡くなった母の洗礼名の記念日でもあり、7年前に僕が初誓願を宣立した日でもある。今となっては還俗したので誓願はなんの有効性もないのだが、こころのなかでは大事な日である。少なくとも僕には。

聖ヨゼフはマタイとルカ福音書の冒頭にほんの少し登場するだけで、しかも何の言葉も発していない。ただわかること、少なくとも史実であることといえば、誰の子供かわからない子供を身ごもったマリアを、私的リンチに合わせないように「ひそかに離縁」しようとしたころ、しかし、それを思いとどまってパートナーとして迎えたこと、そのどの場面でも聖書においてはなんの発言もしていないこと、である。マリアが聖霊によって身ごもろうと、ローマ兵にレイプされて身ごもってしまったとしても、周りから無言の圧力を受けようと、彼は彼女とその胎の子を受け入れた、ということだ。

ヨゼフにとって、この気持ちはどんなものだったのだろうか。そして、離縁を思いとどまらせた思いとはどんなものだったのか。それをベラベラと言ってあるかない寡黙さとはいったいどのようなものだったのか、思いを馳せるだけで身がよじれる思いである。

僕が初誓願を立てたとき、初誓願式のごミサに両親だけ参列した。遠く北の地から関東まで出向いてくれた。「お前の司祭叙階には一族総出でこれるように貯蓄中だよ」とミサ後の祝会で今は亡き母は言った。あのまま会に残っていたらちょうど今頃僕は叙階されていただろう。結局会を出た僕は、母のその言葉に応えることは出来なかった。

初誓願式の前日、両親は修道院を訪問し院長様に挨拶をし、ごミサを依頼して、お聖堂で跪き、お祈りをしてから、外に出て、カバンから袋をガサガサと取り出した。

中には女性信者用のミサ・ヴェールが数枚入っていた。

「これ何?」と僕が問うと、母は、「自分用のヴェールを新調しようと思って作ったらたくさん作ってしまった。ヴェールを新調できない信者さんにあげなさい」と答えた。

「いまどきミサ・ヴェールは流行らんさー」と僕がわざとくさしていうと、「そんなん人それぞれさ。欲しい人にあげればいい」と即答。後ろでウンウンと頷く父。

「ほんじゃ明日、ミサ前に入り口で売ったらいいべさ」とさらにくさすと、「もう神父さまに祝別してもらったから売れんのよ、アハハ」とこれまた即答。

明日新品の修道服を受け取るぼろ修道服姿の修練者である僕と、わざわざ田舎から飛行機乗って出てきた両親。修道院に入ってから初めて親子三人でゆっくり話しをしたひと時。しかも、小ぬか雨の降る、教会の庭で。

母が吸っていたタバコを一口もらい、一年ぶりのタバコを吸う。

「修道服でタバコってなんかみっともないなぁ」と僕。

「よそさんがみたらみっともないからやめなさい。あんたただでさえ胡散臭い顔してんだから」と母。後ろで笑う父。

「一年間禁煙でさ、しんどかったわー」と僕。

「体に悪いからやめなさい」と母。

「チェーンスモーカーに言われたくないさ」と僕。笑う父。

「そらそやわ」と笑う母。


次の日の初誓願ミサで、僕は感極まって泣いてしまった。修道者にあこがれて、やっと見つけた自分の道、やっと呼ばれたと信じた神からの呼びかけ。

ミサの奉納は両親がした。少し両手が震えているのを僕は見逃さなかった。
そして、聖歌を歌いながら、滅多に人前で涙を見せない母と父が泣いていた。僕が覚えている限り、その時点では、父が泣く姿を見たことがない。母は、僕の高校受験発表の時、何でもない顔で車からおりずに車中で結果を待っていた母に父が合格した時ことを伝えた時に安心して流した涙と、祖父が亡くなった時火葬場で号泣した姿と、僕が修道院に入る時、見送ってくれた空港の出発口で泣いていたこの三回だけである。それから母が亡くなるまで、母が泣いた姿を見たことがない。気丈な人だった。

結局、思うところあり、終生にわたる最後の誓願を立てる直前に、僕は修院を出た。あの見送られた空港で家族と離れるよりも、修院を後にする時のほうが、僕は辛かった。でも出なくてはいけない、と、その時は思っていたから仕方がないのだが。

修院を出ることを、母は強く反対していた。「お前は何のためにそこに呼ばれたのか、おいて頂いているのか、忘れたのか?神様のお仕事をお手伝いさせていただける素晴らしさを忘れたのか?母さんや家族みんなが、思いを飲み込んで神様にお返ししたことを忘れたのか?」と、強く諭されたが、結局僕は出てしまった。何の問題があったわけでもない。院長から出されたわけでもない、だけど気の迷いでもない、その時信じた道を歩みたかった、という僕の意思で。

あれからしばらく母は口をきいてくれなかった。
その一年後、病を得て、その半年後にはあっけなく逝ってしまった。

「せっかく帰ってきたんだもん、なんかあっても安心だべさー」と僕が言うと、母はじっと僕の目を見据えて言った。

「あの空港であんたを見送った時、お母さんはあんたを神様にお捧げしたんだよ。だから、あんたがアフリカにようとフィリピンにいようとイタリアにいようと、どこにいたって安心してた、そんな言い訳がましいことでごまかさないでくれるかい」

自他共に厳しい人だった。そしてあったかい人だった。

この聖ヨゼフの祝日を迎えると、母の命日と同様、母のことを思い出す。
そして、今、僕は何をなすべきか、どこに向かうべきか、どこへ呼ばれているのか、今一度、ちゃんと耳を傾けなければ、と思う。毎年、毎年。

聖ヨゼフのように、そして聖ヨゼフを大事に思っていた両親のように、決して隷属やあきらめではなく、信頼をもってすべてを受け入れる心を、気丈で優しく強い心を、僕も持ちたい、と、心から思う。