『フラット』……2004年クリスマスに | Verbum Caro Factum Est

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僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

とても大事な人と喧嘩した後のお話。


クリスマスに実家に電話した。そしてそんな話を母親と話した。久しぶりに話したのにそんな内容かよって感じですが。何故か饒舌な母は(クリスマスだったからかな?)こんなことを言っていた。


『アンタね、神様の愛ってのはさ、
直接神様がドロンと表れて配ってあるくものじゃないのだよ。
それじゃあ魔法よ。
魔法は解ければなくなってしまうわ。

いいかい?
一生懸命愛そうとしているアンタの姿の中に
もしかしたら、見る人は神の愛を観るかもしれない。
関わりの中にあふれるものなのじゃないのかい?
愛です神ですって言葉はそんなに必要じゃないんだよ。

アンタの心に注がれた神様の愛の光がさ、
いつでも反射できるように、
アンタの心を準備しておきなさい。

でもね、その心がフラットじゃなきゃ、
綺麗に反射しないのだよ。
熱くなって、愛とエゴを取り違えちゃうとね、
心がレンズみたいになってしまって、
たとえばその光が愛であったとしても、
レンズを通して照らされた人はさ、
焦げて死んでしまうか、
熱くてジリジリして逃げてしまうものだよ。

例えばさ、アンタ、
親から偏った愛情のかけ方される子どもは
逃げるか、死ぬか、親を殺すかだったりするじゃない?
悲しいことなんだけどさ。
愛そのものにかわりはないし間違ってもいない。
でもね、かけ方を間違えると、
人を殺してしまうんだよ。

だからね、アンタの心を照らす神様の愛が、
綺麗に反射するように、
アンタの心をフラットにしておかなきゃよ。
愛とエゴを取り違えちゃ駄目よ。
もちろん愛に制限をおいても駄目よ。
でもね、かけ方をよくよく吟味しなさい。
アンタの心の状態をよくよく見つめなさい。
祈りながら、何度も起き上がりながら、よ。

一生懸命愛しなさい。愛して愛して愛しなさい。
関わりの中に神様の愛があふれ出るように。

祈りなさい、心が平らであるようにね。
誰かがアンタを見たとき、
その人がアンタをたたえるのではなくて、
アンタの心を照らす神様をたたえることを、
求めていかなきゃ、だわよ。

それができればどこでなにやってても、
素晴らしいと、アタシは思うのよ。
アンタのためにいつも祈ってるわ。』


とても不思議な気がした。ビックリした。
しかもガラッパチな口調で神様を連呼してて、
変な人だなーって思った。僕の親だよね(笑)。
実は信心深い母なんだな、と改めて思った(笑)。


面白い発想。心を平らに、かぁ。