Verbum Caro Factum Est

Verbum Caro Factum Est

僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

 告解とは、カトリック教会においてカトリック教徒が司祭に罪を告白し、司祭による秘跡的なゆるしを介して「ゆるしと平和」を神からいただく秘跡です。

 

 告白はこの秘跡の本質的要素の一つです。告白は単に自分の罪を言い表すだけではありません。罪を痛悔しそれを告白することは、同時に神の聖性と深いあわれみを認め賛美することを意味します。


 そして、神のゆるしという限りないあわれみと慈愛を体験した人は「まず行って兄弟と仲直りをしなさい」(マタイ5・24)というキリストの呼びかけにこたえる用意があるとカテキズムで教えられています。(カトリック教会のカテキズム1424)

 

 洗礼が罪のゆるしならなぜ洗礼後のゆるしが再び必要でしょうか。回心へのキリストの招きはキリスト者の生活においてたえず続けられます。この第二の回心は教会全体がつねに行うべきものだと言われています。この回心の努力は、単なる人間の業ではなく、恵によって引き寄せ、動かされる「打ち砕かれた心」の動きであり、先にわたしたちを愛された神の慈愛にこたえるものです。(1428)

 

 教父たちはこの秘跡を「恵みの喪失という難破の後に投じられる、救いの二枚目の板」と呼んでいます。(1446)

 

 告解では神の十戒による良心の究明を痛快のをもってなし、その中で、①それが大罪だと知っていて、②避けることができたにもかかわらず、③自ら望んでその状態に至った「大罪」を告白します。この①〜③の全てが揃って「大罪」となります。

 

 司祭への告白は、ゆるしの秘跡の本質的要素の一つであるとはじめに書きました。「悔い改める者は告白の際に、真剣に究明した後で、意識しているすべての大罪を列挙しなければなりません。たとえその罪を知るものがだれもいないときも、あるいは十戒の第九戒と第十戒に背いただけであってもです。なぜなら、時として、これらの罪は皆に知られながら犯した罪よりも深く傷つける、より危険なものだからです」とカテキズムは指摘します。(1456)

 

 ここで改めて「神の十戒」を紹介します。同時に「二つの愛のおきて」「対神徳」「枢要徳」聖霊の七つの「賜物」聖霊の十二の「実」教会の五つの「おきて」七つの「身体的慈善のわざ」七つの「精神的慈善のわざ」、伝統的と今日の文脈での七つの「罪源」をご紹介します


 神からいただく善いものを知らずに、究明すること、痛悔することはありえません。神のおきては愛であり、規則や戒律や義務ではありません。戒律や義務は遵守するものに優越感を与え、他者を排除します。それが集団となり「カルト(セクト)」が生じるわけです。カトリックのおきての捉え方とは全く逆です。しなければいけないものではなく、聖霊に促されせずには折れない善き賜物がはじめにあるわけです。それら神からいただく善いものを概観してからご、一緒に「回心」について考察していきましょう。少し長くなりますがお付き合いください。


 なお、「良心の究明」は日本の教会で伝統的に使われてきた公教会祈祷文に「十戒」「おきて」「罪源」に照らし合わされ列記されています。今日販売されている各祈祷文・祈祷書などに記されていますのでここでは省きます。どうぞ各々ご自分の祈祷書やゆるしの秘跡のブックレットをご参照ください。

 

神の十戒
わたしはあなたの主なる神である。

  1. わたしのほかに神があってはならない。

  2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

  3. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

  4. あなたの父母を敬え。

  5. 殺してはならない。

  6. 姦淫してはならない。

  7. 盗んではならない。

  8. 隣人に関して偽証してはならない。

  9. 隣人の妻を欲してはならない。

  10. 隣人の財産を欲してはならない。

 第1戒から3戒までは、神に対して、第4戒から10戒は人間関係における戒めです。この戒めの大前提となっているのは「創造主である神と被造物である人間」という分際をわきまえ知ることです。それは自己憐憫でも、神を遠ざけることでもなく、完全な愛の交わりと充満である三位一体の神とそのパートナーとして愛の息吹を吹き込まれ生きるものとなった人間という「愛の(大切にする)現実」を意味します。神を、人を、愛する(大切にする)ことこそこの十の事柄に生きることを意味します。愛の視点なしに十戒を読むことはできないのではないでしょうか。

 

二つの愛のおきて

  1. 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

  2. 隣人を自分のように愛しなさい。

三つの「対神徳」

  1. 信仰

  2. 希望

四つの「枢要徳」

  1. 賢明

  2. 正義

  3. 勇気

  4. 節制

聖霊の七つの「賜物」

  1. 上智

  2. 聡明

  3. 賢慮

  4. 勇気

  5. 知識

  6. 孝愛

  7. 主への畏敬

聖霊の十二の「実」

  1. 喜び

  2. 平和

  3. 忍耐

  4. 寛容

  5. 善意

  6. 親切

  7. 柔和

  8. 誠実

  9. 謙遜

  10. 節制

  11. 貞潔

教会の五つの「おきて」

  1. 主日と定められた祝日にミサにあずかり、それらの日を聖とすることを妨げる仕事や活動を控えること。

  2. 少なくとも何に一度自分の罪を告白すること。

  3. 少なくとも復活節の間に聖体の秘跡を受けること。

  4. 教会が定めた日に肉食を差し控え(小斎)、断食(大斎)を守ること。

  5. おのおのの分に応じて教会の財政を助けること。

七つの「身体的な慈善のわざ」

  1. 飢えている人に食べさせること。

  2. 渇いている人に飲み物を与えること。

  3. 着るものをもたない人に衣服を与えること。

  4. 宿のない人に宿を提供すること。

  5. 病人を訪問すること。

  6. 受刑者を訪問すること。

  7. 死者を埋葬すること。

七つの「精神的な慈善のわざ」

  1. 疑いを抱いいている人に助言をすること。

  2. 無知な人を教えること。

  3. 罪人を戒めること。

  4. 悲嘆にうちひしがれている人を慰めること。

  5. もろもろの侮辱をゆるすこと。

  6. 煩わしい人を辛抱強く耐え忍ぶこと。

  7. 生者と死者のために神に祈ること。

七つの「罪源」(コンペンディウムより)

  1. 高慢

  2. 貪欲

  3. 肉欲

  4. 憤怒

  5. 貧食

  6. 嫉妬

  7. 怠惰

七つの「罪源」(2008年にオッセルヴァトーレ・ロマーノで公開された今日的な罪源)

  1. 環境汚染

  2. 遺伝子改造

  3. 過度の富の蓄積(鼻持ちならないほど金持ちになること)

  4. 貧困の引き起こし(人を貧乏にさせること)

  5. 麻薬の取引と使用

  6. 倫理的に議論の余地のある実験(人体実験)

  7. 人間の根本的な権利の侵害(社会的不公正)


 さて、回心とは何でしょうか。何かの行いを中断すること、もしくは、その思いを捨てることでしょうか。たしかにそういう側面もあるでしょう。わたしと神の関係と、わたしと教会の関係が、和解の状態にあるか、教会の教える福音の精神にわたしは自分の行動原理を置いているだろうか、その視点をもっているだろうか、そのために指一本でもうごかしているだろうか。そのような内面的な問いかけが告白には伴わなければなりません。わたしと神の関係はどうでしょうか。教会との関係はどうでしょうか。兄弟姉妹に対する思いと、言葉と、視線はどうでしょうか。

 

 マルコ福音記者は、イエスも宣教の初めに言った言葉を伝えています。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)

 この言葉を正面から向き合い、聖書が伝えるイエスの言葉の意味するところのものとはなにかを深く味わうことは、回心を理解し、告解の告白と表裏一体である痛悔とは何かを知るために重要であると言えます。

 

 ギリシャ語の細かい引用はしませんが「時は満ち、神の国は近づいた」の動作主は誰でしょう。タイムアウトのようにある時から現時点までの時間が過ぎたという意味でしょうか。時間そのものが自ら満ちたのでしょうか。ここで語られている「時」は過ぎてゆく時間ではなく、機会やチャンスといった限定的な「時」を意味します。
 そして「神の国」とは空間的理解でもよいのですが、単に空間的なものだけでなく「神の意思が十全に行われる支配」を意味します。

 

 つまり、「時をが成就し、神の意思による支配が決定的にもたらした」のは神ご自身であるということです。時も、神の国(決定的な支配)もわたしたちが動かすことができる者ではないということです。そして、それはすでにやってきているのだということですね。

 

 「悔い改める」とは何なのか。根本的転向(転換)を意味する言葉が使われています。どこに何を根本的に転向させるのでしょうか。心を、神に向かってですね。ですから、先述の通り何かの行いを中断すること、もしくは、その思いを捨てることは結果としてはそのように見えるかもしれません。大事なのは神と自分との関係の認識、そして、恩恵の状態が損なわれていたり、神に背を望んで自ら背けている状態にあるのだとしたら、神の深いあわれみのゆえに深く痛快し、神に向き直ることが肝要です。ただ単に良心の究明や神の十戒に背く行いを「単に中断する」ことには、告解の本質的な意味から言えばさほど意味のないことといえるかもしれません(しないほうがいいですが)。


 この「悔い改める」にあたるギリシャ語は「メタノイア」という言葉です。メタは転換や転向など位置関係の転換を意味し、ノイアは「ヌース(心)」を意味します。文字通り「神に心を転換・転向・向き直す」という意味です。「悔い改める」という日本語とはかなりイメージが違って感じるかもしれません。

 

 「福音を信じなさい」とはなんでしょうか。福音とは「よいしらせ」とキリスト者みな口を揃えて言いますね。では、具体的に、何が「よいしらせ」なのですか?と問えば即答する人はあまりいないのではないでしょうか。それを問題にしているのではありませんが、表層的なことは言えても、真の意味、わたしたちの心をしっかりとのせるものが何なのかあまりカテケージスされていないのは残念のように思います。

 

 福音書をつなぎ合わせて物語を作り上げていくことは、自分の言わなければ気が済まないことを福音に語らせるようなものなので、避けたほうがよいと個人的には思います。ただ、はっきりと意味が伝えられるもの、特に、共観福音書でマルコの伝えたものを他の福音記者がどう理解し伝えているのかを知ることは極めて有用です。

 

ルカ福音は「福音」をこう伝えています。

 

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

 「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし

 主の恵みの年を告げるためである。」

イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(ルカ4・16-21)

 

 これはルカ福音でのイエスの公生活のはじめの場面です。シナゴーグで預言者イザヤの書を朗読するイエスの姿が書かれています。このイザヤ予言はイザヤ61・1に58・6を挿入したものです。構造的には「囲い込み」と言って同じ語彙によって文章が囲い込まれているところが強調点となる文書形式で、この箇所は「アフェシス(解放)」という言葉で囲い込まれています。

わたしたちがどう理解したいと望もうと、厳然と福音とはなにかがこの福音で語られています。これこそが「よいしらせ」であり「福音」なのだ、ということ。

 

 そして「信じなさい」は「ピステウオー」という言葉が使われていますが、これは単に信じるに値するとか、自分が関心があるから信奉するとか、教条的命令として「信じる」のではなく「忠実でありなさい」=「信頼してあゆみをおこしなさい」という意味となります。信じるとは霊的な精神的主体の霊的動作ではなく、具体的な行いを伴う忠実なあり方を意味するわけです。

結局、結構細かく書いてしまいましたが、この「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」を根本から理解しなければ、誰がはじめにわたしたちを、わたしを、大切にしてくださったのかがわかりません。悔い改めや痛悔の本質的な意味もわかりません。福音とは具体的になにか聖書がどう語っているのかを知らなければどうして「よいしらせ」ということができますか。そして信じるとは一体何なのか、具体的には何を意味するのか、それを知ることは、はじめに大切にしてくださった方との関係だけでなく、自分と自分自身、そして、自分と教会の関係性をどの視点から見たら良いのかわからないと思うのです。

 

 もちろん、ここに書いたあり方であるべきとは思いません。信者一人ひとりが、それぞれ神様との関係を築いておいでです。ですから、一つの視点として読んでいただけたら幸いです。

 

 告解は罪を告白し、司祭の秘跡的ゆるしにより、神からゆるしていただくものだとはじめに書きました。何に基づいてわたしたちは痛悔するのか、よくわからないとも書きました。

 

先日X(旧Twitter)に告解についてポストした文を引用して結びたいと思います。

 

(以下引用)
告解で何を告白したらいいかわからないという声はよく聞くし、僕自身正直ピンと来ていなかった。何年か前の被昇天のミサ中にとっても深い促しを感じて、告解をした。正直苦手な神父さまに、促されるままに、自分が秘めておきたい事柄について、それが罪かどうかもわからずに告白した。

「思い出せない罪も合わせてゆるしをお願いします」と言い、神父さまの勧めの言葉を聞いているうちに、ココロの中の大きな塊が溶解して自分自身と初めて一致した気持ちになった。ゆるしの後、神父さまは償いのための祈りを一緒に唱えてくれた。何だか泣けて泣けて祈りの言葉が出てこなかった。

 

神学的に「罪とはなにか」ということを、教会の伝統に合わせ、聖書ではどう語られているのかについて、学ぶことはとっても極めて重要だ。表面を撫でるように究明の項目をなぞっていても自分の心はなぞることはできやしない。自分と自分自身が和解することなしに、神とどのように和解したらいいだろう。

 

わたしたちは知っている。神はゆるしてくださることを。先にあいしてくださることを。「わたしたちが完全な者になることをまたずにあいしてくださること」も知っているはずなのに、それに目を向けないのは、自分が自分自身と和解したくないからのように僕は思った。誰だって瘡蓋を剥がしたくはない。

 

信頼して歩みを起こすその向こうには、想像を超える「ご大切」で満ち溢れ、わたしたちは自分自身と和解し、神さまと和解する。神さまがその指で、わたしの目から涙を拭い、労ってくださる。その体験を告解は与えてくれる。なぜなら「いやしの秘跡」「ゆるしと和解の秘跡」だと教会は宣言してるから。

 

あの被昇天の夏の日。僕はヨゼフさまのご像の前に座りごミサに与った。からだも魂も天の栄光に挙げられた聖母を寿ぎ、そうなさった神を賛えるその日に、聖母の浄配であるヨゼフさまが、僕に、からだも魂も大事にするよう促しを取り成してくださったように感じている。

(引用終わり)

 

わたしたちに注がれる神さまのあたたかい眼差しと、包み込んでくださる御手に信頼したい(忠実でありたい)ものですね。そして、他人(兄弟姉妹と呼びますがほんとうにそうでしょうか)の罪ではなく、自分の目の丸太に気づき、そのわたしに対したえず向き直ることを切望しておられる神さまのあたたかさを味わいながら、互いに助け合い、一つの共同体、キリストの神秘体として活かされていきたいですね。教会の母である聖母マリアの扶けと祈りに支えられて、教会と共にすでに始まりやってきた神の国の完成に向かって「時」を共にしていきたいものですね。

 

 

台湾・台北市の天主教聖家堂(カトリック聖家族教会)の告解室

台北一大きなな小教区(イエズス会が司牧担当)

日本語ミサもあります

先週(待降節第1主日C)のごミサでお説教の中で神父様が「主の降誕には受肉した神のみことばがお生まれになる。この待降節、あなたのもとに、イエズス様はどのような姿でおいでになるのか、見失わないようにしましょう」とおっしゃっていた。とても深く、また、見失いがちなことのように思いハッとなった。

 

また、今日(待降節第2主日C)のごミサでは違う神父様がお説教の中で、ルカ福音記者は人間の歴史の中に神様の救済の業が決定的に介入したこと、そして「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉をこの箇所おいてはルカ福音記者が最も強調していると指摘された上で「わたしたち一人一人の心の中の低いところは埋められ、高いところは低くされる。一人一人の心が平にされることなく、どうしてでこぼこ道が平らになりますか」とおっしゃっていた。本当にそう思う。

 

わたしたちは日々の生活の中で神とどう出会っているだろうか。どう向き合い、どう祈り、その結実をこの「わたし」という人生のうちにどのように実らせていただいているだろう。

 

昨日、用事があって外に出た時に、ちょうど友人から連絡が来た。ちょうどというのも、今の住居は僕の携帯電話会社と相性が悪いようで部屋の中では圏外になってしまい、電話やメールなど不通になってしまう(後数日でネット環境が整うのだが)。その連絡は遅延していたものが携帯に届いたのではなく、ちょうど、まさに、今、その時に、友人からきた連絡だった。

 

内容は、事情で警察の留置施設にいる共通の友人を見舞いに行かないか、という連絡だった。実はその日、役所に届けを出しに行ったり、病院の受診などで用事が詰まっていた。ほんの数秒ほど感じ入り「一緒に行こう」と返事をした。

 

教会は年間最後の三週間と待降節の前半(12月16日まで)、イエズスの第二の到来(終末における再臨)を記念し続ける。聖書の中にはいくつも「終末論」が説かれ、その様を「黙示文学」という文学様式を用いて描いている。特に、ヨハネの黙示は終末における「予言」ではなく、黙示文学の様式を用いて「その時代」のキリスト者たちの福音理解について描かれており、教会で、特に典礼の中で読まれることを前提にして書かれた特徴ある文書だ。

 

マタイ25章には10人のおとめ、タラントン、全ての民の裁きの三つのエピソードが二つの喩えと黙示の文学様式によって書かれている。

 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』(マタイ25・31-45)

 

教会に通っている人は一度ならず聞いたことのある箇所だと思う。

 

「 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた……はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

 

イエズス様がおっしゃるから、このような業をすることは、はたしてキリスト者としてどうであろう。この正しい(この場合の「正しい」とは道徳や倫理にかなった正しさや間違いを犯さないという意味ではなく「神の方を向いている」ととるべきではないだろうか)人たちは、「いつ、いつ、あなたにさせていただいたでしょう?」と問いかけている。つまり、外発的な動機づけによってその業をなしたのではなく、神の方へ心を向けた日常そのもの、しかも「〜だからする」のではなく、「したいからする」という実に内発的な動機づけであったからかれらは問いかけたのではないだろうか。誰に何をしたかではなく、どのような心のあり方であったのか、が問われているように思うのだ。

 

わたしたちは、外発的な理由(義務)で何かをなし、自分が探したいところに神をさがしても、そこに結実はなく、神を見出すこともできないのではないように思う。いわんや、イエズス様がおっしゃるから、そのような人々にさまざまな業をなすのなら、それは弱者を消費に他ならない。自分の救い、自分の充足のために、弱い人、苦しい人を利用することになってしまう。

 

なぜ?困っている人に手を差し伸べ、人のために愛といつくしみの業をなすことのどこがいけないのか?と問う人がいる。確かに見た目には同じ業、同じ行動だ。だが「自分の救いのために」という外発的動機づけを満たすために弱者を道具にすることは、愛といつくしみの業だろうか?それは違う。本当に紙一重であり、そのためには日々の祈りとこのわたしに遣わされたイエズス様とは誰なのかという気づきに自分が開かれていなければわからないものなのだと僕は思う。

 

待降節第1主日にいただいたお説教と、今日聞いたお説教に挟み込まれて、僕は留置場にいる友人を訪ねた。それが、何を意味するのか、マタイに書かれているから行ったのか、僕にはよくわからない。友人を訪ね、しんどそうな姿を見た時、今日僕はイエズス様に会ったとも思わなかった。ただ、帰り道に思い返した時、僕はとても解放された思いがした。心から心配し、とにかく何かをしなければと、腹の底から突き上げられる思いがするなんていつ以来だろうと。残念ながら僕は普段からそういった共感共苦を持つことができない薄情者だ。

 

とにかく、僕も自分自身の心と、その生活を平らにしていただけるよう、神様に自分自身をお委ねしたいと思う。幼子を意味するラテン語infantは「口が聞くことができない」という意味だ。それは力無く、なんの役にも立たない、言葉も話せない、そのような姿、存在で来られるイエズス様が「来て」くださることをわたしたちは知っている。アドヴェント(Tempus Adventus)の原意は「来る」だ。「み国が来ますように」の「来る」も「adveniat」。ただ待つだけではなく、イエズス様がおいでになることを「待ち望む」季節という意味だ。

 

イエズス様を待ち望むために友人を訪ねるのなら、僕は友人を消費することになる。でも、訪ねることによってイエズス様が来てくださることを、本当にこの僕の心と人生に来てくださることを、訪ねて行った友人を通じて教えていただいたように思う。そうやって、一人一人の心が平らにされた時、でこぼこ道は真っ直ぐにされ、人はみな神の救いを見るのだと思う。

 

また、来週訪ねる約束をした。一人では苦笑いしかできない。悔し泣きしかできない。一緒でなければできない表情を友人と共有できればいいなと思う。そして、そっとその友人の人生に立ち直りがあるよう、全ての人のお母さんであるマリア様の助けを願って祈りたいと思う。

LGBTQを「性的少数者の総称」と定義するのを目にするが、単に性的少数者の呼称ではない。多様性の一致を前提とした政治的連帯を表明するものだ。性的少数者の人権の問題において何らかのアクティヴィティもしくはそれに対し賛意を表明する人々を政治的に括った呼称だ。

英語圏、諸外国においてLGBTQというのは文字通り性的少数者の総称として用いているが、用いる人々は押し並べて政治的に自覚的だということ。そして、政治的に悪意を押し付ける文脈でもLGBTQ**と用いられることから、実に政治的呼称であることを認識されたい。

僕はLGBTQという呼称それ自体に問題は感じないし、違和感はない。あくまでも、それは日常における人権運動と多様性の一致を目指す社会を前提として。

政治的な問題で誰が含まれ誰に寛容でないかはさておき、この呼称を日本の教会の文脈で使うことに僕は大きな戸惑いを覚える。なぜなら、政治的連帯を示さない、示すことができない人はこの呼称から除外されるからだ。政治的連帯表明者の総称を教会の現場で使うことは日本では困難に感じる。

教会における性的少数者は政治的連帯を示す者だけであってはならず、むしろ、声を上げることすらままならない人とどう向き合い、その人と共に歩むかが福音的勧告への一つの応答ではないか。

少なくとも教会の文脈において、性的少数者当人の政治信念やアクティビティー、また関係性や性行動における倫理、身体への医学の介入の有無を問わず、より包摂的でなければ福音的とは言えない。かといってMSM(men who have sex with men)といった臨床や公衆衛生上の行動のみをフォーカスした呼称も、性的指向の差異こそないが、教会の文脈にふさわしいとは思えない。

盛んに教会内でLGBTQについて語られることは本当にありがたいし、事実、教会においていまだに解決されていない大きな問題であるから盛んな議論のパストラルケアが必要だ。だが、LGBTQという呼び名を性的少数者の総称と用いることは、特定の政治的連帯を示す人以外はみな取り残されるということを指摘しておきたい。

人権の運動と、教会の問題は文脈は重なるものはあるものの、決して同一ではない。福音的視座へと転換し共に歩みを起こそうとして、その現実がある種「上から目線」の排除へつながるのはあまりにも残念だ。そのことに自覚的でなくして、教会内外での性的少数者への福音的アプローチは、実は無理であるどころか、新たに孤立する人を生むことを認識されたい。
福音の価値は不動だ。問われるのはわたしたちの意識しない(気づかない)現実だ。その気づきのなさの向こう側に取り残される人々がいることに目を向けずに、福音が何かを語ることはどうなのだろうかと、まず自らを問わねばならないと思う。