Verbum Caro Factum Est

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僕Francisco Maximilianoが主日の福音を中心に日々感じたことや思うことを書き綴るBlogです。同時に備忘録でもあります。

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「性的少数者と友人のためのミサ」

東京に「LGBTQみんなのミサ」という集いとミサがある。そのミサと分かち合いはアライの方がコーディネートされていて幾人かの信者が参祷している。個人情報等は守られるので誰がミサに集っているかは自己申告しない限りわからない。性的少数者の問題を「教会の課題」として受け止めている司祭が司式司祭として招かれている。

 

僕はそのミサに与った事はないので詳しい事はお伝えできないのだが、当事者であるLGBTQに加えアライの協力者に異性愛者の司祭という性的指向やジェンダーが多面的であるところはとても良いことと受け止めている。というのも、LGBTQの真の当事者性はそれ以外の性的指向やジェンダーが向かい合うところに生まれるからだ。性的少数者の問題は人権の問題であり、そこから取り去られた祝福を回復する事は神学的にも大切な問題であるという事を認識する人はすべて性的少数者の諸問題の当事者と言える。

 

小教区につなげる司牧的配慮と非ゲットー化

性的少数者と友人のためのミサは考えれば考えるほど必要だ。原則としてカトリック信者は自分の所在地の小教区によって教会生活をおくる事になっている。もちろん長らく役所の役目を果たしていたヨーロッパの伝統なので信仰的な根拠はあまりないのだが、自分に与えられた小教区とその教会共同体で他の信者とともに自分の信仰生活をおくると言った観点からも伝統を超えた意味がある。性的少数者の信者は比較的大きな小教区に集まる傾向がある。それはもちろん行きにくさ(生きにくさ)があるからだ。もし地方の小さな小教区でも性的少数者を受け入れる体制を信仰共同体として課題とし取り組んでいるのなら、わざわざ都会の大きな小教区に紛れるように行く事なく「自分の小教区」でのびのびと健やかに信仰生活をおくることができるはずである。だが、いまだに性的少数者の受け入れに積極的な働きかけをしている小教区に出会ったことがない(セミナーや講演会はあるだろうが)。できるなら教区の管轄のもと各司教区でこのようなミサが捧げられ、分かち合いの時がもたれる事も求めていかなければならないと個人的には思う。

 

そのような意味においては、集った性的少数者の信者が自分の小教区へ帰っていくためのカンフル剤的存在もしくはリハビリとしても性的少数者と当事者に特化したミサは必要であると言える。あくまでも最終的には自分の小教区で何の差別も引目もなく信仰生活をおくることを念頭に置かなければ、そのミサは簡単にゲットー化する。それは小教区にとっても大切な課題を取り上げられる事にもなる。信者本人が望むなら司祭間で個人情報に注意を払った連絡や説明の上、主任司祭にカミングアウトした状態で自分の小教区に戻ることもできるようになるだろう。

 

カトリックは共同体の信仰である。だが小教区において自分のライフイベントに関わる秘跡を受けにくい場合は、このミサが一つのサービスチャーチとして関わり共同体を形成することもできる。確かに便利で心理的ハードルが低くコミットできるが、カトリックの本来の信仰共同体としての小教区への橋渡しがなければこのミサはゲットー化し非可視化のままとなる。洗礼や告解といった秘跡が授けられた場合はその管轄する小教区に洗礼台帳を置かなければならない意味を考えながら、性的少数者の信仰共同体として可能な秘跡と準秘跡、及び司牧的配慮を考えつつ、将来的な小教区との関わりを念頭におくべきであろう。

 

例えばカトリックに関心がある性的少数者の未信者を小教区に繋げにくい場合、入門講座と入信の秘跡を授けなるべく早く自分の小教区へと繋ぎ、その先のケアについて司祭を含めコアメンバー達で対応して行けるのなら教会の敷居が高く感じてしまう性的少数者にとっては大きなチャンスとなる。大事なのは、準備と秘跡のその先にある小教区での生活の質がどうであるかということだ。

 

教会からの助けの手

性的少数者のミサに次いで大事なのは司祭・修道者による包み隠しない霊的同伴を受けることではないだろうか。現行教会法では相互補完のある生殖に開かれた男女のカップルの生殖のための結合以外のリレーションシップは許されない。だが、生きてゆくために支え合う二人の間に愛がないと言えるだろうか。支え合い生きている人に与えない祝福がない教会とは一体何者であろうか。秘跡とそれ以外の関係性についての詳しい事はこの場では述べない。生きてゆくために支え合う二人こそが相互補完を満たしていると僕は考える。秘跡が受胎と緊密に結ばれているのなら養育にも結ばれるべきである。教会の言う男女による相互補完は受胎に完結するが受胎した命は育てられて初めて実を結ぶのである。実際はどうであろうか?

 

自らの貞潔を保つ事は非常に大事な事であるし、多くの信者のある意味「関心事」である。だが、大事にされた経験のない者は自分を大事にはできない。愛されたことのない者は自分を愛することができないのだ。教会は貞潔ばかり強調するが同時に性的少数者を大事にし、愛さなければ貞潔の真の意味を見出す事はできない。貞潔は単なる倫理的行動規範ではないのだ。教会は性的少数者一人一人を愛し、受け容れ、慰め、赦し、愛の絆で緊密に結ばれるよう招かなければ、カテキズムや教会法はやかましいドラに過ぎなくなると僕は思う。大事にされてこそ初めて自分を大事にしようとするのだ。自分を大事にできるからこそ、他者を大事にできるし愛することもできる。その営みを貞潔と呼ばずして何と呼ぶのだろうか。

 

そういった当事者も気づかされないニーズに応えるためにはよくトレーニングされた司祭・修道者と定期的な霊的指導や霊的同伴が大きな恵みをもたらす。何が不要で何が不必要かと言った非常に傷つきやすい事柄を、自分を装ったままで扱うことができるであろうか?無理である。

 

性的少数者カトリックに必要なのは愛である。慰めである。赦しである。受容である。その事に応えられない教会のジャッジに信頼を置く事ができるであろうか?性的少数者への秘蹟と霊的同伴の必要とその恵みの大きさを広く認識されたく思う。「種々の機会のミサ」の「困難の中で」のミサの拝領祈願には次のようにある。「全能の神よ、とうとい秘跡に力づけられて祈ります。困難に対して勇気をもって立ち向かい、苦しみにある人にも励ましを与えることができますように」と。その共同体が苗床や保育器のように性的少数者を癒し、育て、のびのびと自分の小教区でありのままの自分で信仰生活をおくれるなら何と素晴らしい事であろうと僕は思う。

 

教会は諸民族の光であるイエズスに従う旅する方舟である。わたしたち性的少数者もまたイエズスに贖われた「諸民族」なのである。同じく「困難の中で」のミサの集会祈願にはこのような祈りがある。「恵み豊かな父よ、苦しみの渕からあなたに叫ぶわたしたちを顧み、重荷を取り除いてください。あなたのいつくしみ深いはからいに、いつも心から信頼することができますように」教会はわたし達から光を取り去ることは決してせず、かえって神のいつくしみ深い計らいを執りなしてくれることを、教会への信仰を通してわたし達は知っているのです。

 

聖母マリアは世界の呻きを絶えず聴き、わたし達の主であり友であり神であるイエズスへと結び合わせて下さる。わたし達の母である聖母マリアにこの願いを聞きあげ御子に取り次いでくださるよう願いたいと思う。

 

 

 

今年の四旬節が始まった。

マルコ福音の冒頭にイエスの受洗と荒野での40日間の試み、ガリラヤでの福音宣教の発端が描かれている。

 

四旬節というと洗礼志願者の準備とすでに洗礼を受けた信者の回心の期間と言われる。四旬節の典礼や習慣はとても象徴的で意義深いが、同時に誤解を招きやすいように思う。どのような誤解か。罪と回心、試練と慰め。

 

マルコ福音によれば、イエスが洗礼を受けた受けた後、天が開け、霊が鳩のように降り次のような天の声を聞く。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と。

 

この声を聞いた後、同じく霊が荒野へとイエスを行かせ、40日そこで試みにあう。その40日の試みの後、福音宣教のはじめにイエスが語った言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という言葉である。一つ一つの言葉だけで何回も記事が書けるくらい一言一言の捉え方や原語の意味、また、ヘブライ的な背景など複雑な言葉の連続である。だからこそ、誤解を招きやすい、といつも思っている。

 

今日短く書きたいのは、わたしたちの思い、言葉、行い、怠りの有る無しに関わらず「時は満ち、神の国は近づいた」ということ。つまりわたしたちの行いによって、例えば罪的な何かを悔やんだりやめようと試みたり、それらをしようとしまいと「神の国は近づいた」ということ。わたしたちの思いや行いの「改心」が神の国を引き寄せるわけではない。

 

わたしたちはその神の国に招かれた者であるから、神に背を向けたり、神の国の選びから的外れに思うのをやめ、神の思いにすでに与っているものであるということに再び気づき直す必要と心の開きが大事である。なぜならわたしたち一人一人はすでに神の「愛する子、心にかなう者」なのだから。

 

洗礼によってキリストの十字架と死に結ばれ復活の希望を持って生きるキリスト者は、すべて一人一人に、例外なく、条件なく、イエスと同じ言葉が心の奥底に囁かれている。

 

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という天の声が。

 

わたしたちの生活は、良くも悪くも雑音だらけで、本当に必要な美しくて優しい暖かい愛の声がかき消されてしまっているように思う。「あれをしろ、これはするな、こうであれ、ああであるな、これを買え、これを獲ろ!」そのような雑音の中にあって、わたしたちの魂の深奥に常に降り注ぎ囁かれている神の愛の声が聞こえないどころか、自分には語られていないとすら感じてしまう時もある。

 

わたしたちの人生は一生が四旬節みたいなものかもしれない。一生が回心と悔い改めの連続なのか?それしかないのか?と問われればそれは決して違う。四旬節はわたしたちの心の深奥に囁かれる愛の声に耳を傾ける為に雑音から耳を背け、神でないものに満たされそうとする心を方向転換させることを思い起こす期間である。

 

あの愛の声に耳を傾けることに集中し再び思い返す期間と考えるのならば、自分の価値が少なくとも神にとっては、イエスにとっては、一人一人が、比較なく、かけがえなく、尊いものなのだと気づかせていただける期間となる。それならば、四旬節な人生も聞こえによらずまんざらでもないと思うのだ。

 

神の思いによって満たされ、近づいてくださる神の国の福音に、わたし自身を開いていくことができる恵みを聖霊の助けと聖母の取次を願いつつ、四旬節を祈りと感謝のうちに過ごせたらと思う。

 

次の主日、教会ではマルコ福音の「重い皮膚病」を患った人がイエスによって癒される場面が朗読される。

聖書の世界では病は本人や親、もしくは親類や先祖が犯した罪の結果と捉えられていた。よって、関わることを明らかに拒むこと、隔離されて罪人の扱いを受けることは、この当時の文脈にあっては極めて当たり前の態度であった。病人を忌み嫌う事を誰も咎めることはなく、憐れに思う事をあらわにすることは、ひいては同じ罪の傾きを持つものと烙印を押されてしまう可能性があり、もしかしたら憚られる、そっと心にしまっておくしかない状況であったのかもしれない。

特に重い皮膚病の人たちは共同体から隔絶され、人々の近くを通る時には「わたしは穢れたものです」と叫びながら、人々の喚起を呼びながら街を通らなければならなかったと言う。

 

ただでさえなりたくもない病を得て、その病のゆえに「清くないもの」と言う烙印を押され、人々から「穢れている」と除外されるだけでなく、「清さ」を損なわないために自分が病を得たものである事を叫ばなければならないとは、なんともしんどい暮らしだったのではないだろうか。もちろん、この場合の「清い」「清くない」も疫病や衛生的なものはなく、また、完治しているかしていないかでもなく、「バランスを欠く」ことが「清くない」と言う独自の発想というか「清さ」関する当時のイスラエルの遊牧民的概念に基づいているので、現代社会で印象を受ける「清い」もしくは「穢れ」とはかなり違うということを念頭に置いておきたい。特に、日本の神道や習俗にある「みそぎ」や「浄め」「水垢離」と言った発想とは全くの違いがあることを知っておく必要がある。

 

にしても、イエスに「清く」なる事を願った男性はこのような社会状況の中で、人であるにも関わらず思い皮膚病で本来的バランスを欠いてしまった「業病」を負ったものとして生きていたわけで、その心中、辛さ、絶望、清さへの渇望と同時に自己破壊欲求、神ですら認める隔離された扱いを、どのように感じ、苦しみ、憤り、求め、生きながらえていたのか、44歳になってあちこち心身ともにガタがで始めた僕であっても、やはり想像に余りある。

 

この男性はイエスの足元に跪き、「お望みならばわたしを清くすることがお出来になります」と願うわけです。そこでイエスがとった行動は当時の人々の態度、己の「清さ」が損なわれぬよう、口を覆いその病人から走り去っていくという常識的行動とは真逆の姿出会った。

 

イエスはその男性を憐れに思い、手を差し伸べ、その男性に触れて「わたしは願う、清くなれ」とその男性の病を癒すわけです。

 

この後で、司祭に見せて癒しの確認を得るまで誰にも話さなようイエスは「沈黙命令」をするのだが、マルコは度々奇跡治癒物語や奇跡的な出来事の後には必ずイエスの「沈黙命令」を付記しているようだ。

 

この沈黙命令は祭儀上必要なことでも、神秘的もしくは道徳的な沈黙でもなく、フォーカスがずれないためのキーワードと言えるだろう。では何からフォーカスがずれないためか?それは、神の子メシアの道は十字架の道であり、栄光の王でも、力ある業でもなく、十字架の死に引き渡され死ぬ神の子こそ紛れもなくわたしたちの救い主なのだという、マルコ福音に一貫して描かれている十字顔の神学から目がそれないために「沈黙」が必要なのかもしれない。

 

当時の病人を取り巻く理解や現実にあって、イエスは思い皮膚病の男性を憐れに思い、手を差し伸べ触れる。決して特別扱いはしてはいないが、イエスの行動原理は当時の世俗や宗教指導者たちのものではなく、神の選びの行動原理である。世の中で立派な人は確かに立派ではあるが、神の選びにおいてはそれが特別視されることはなく、立派ではないとされている人々に神の選びの眼差しが注がれる。特別扱いするわけではないが、神の選びのゆえに除外もしない。ただそれだけのことである。

 

イエスの宣教の中では奇跡治癒物語がいくつか語られている。治癒そのものがエピソードであるというより、その背景にある人と人の恣意的なやりとりの中でイエスはただ神の選びに従い、十字架への道を歩んで行く。人を人とも扱わない当時の病人にまつわる文脈においてなされたイエスの行動そのものは、それはすでに十字架であるが、癒しと奇跡を語り広められることは、十字架へと向かうメシアの道を阻むものとなる。なんとももどかしい、苦しい話である。

 

次の主日、2月11日はカトリック教会で「世界病者の日」と定められている。1858年、フランスのルルドの洞窟でベルナデッタ・スビルーと言う名もない、学もない、幼い女性に聖母マリアが御出現された記念日でもある。この時聖母は、この田舎の貧しく病弱で標準的なフランス語の教育も受けられなかった少女に、その現地の方言で、しかも敬語を使ってお話になっている。

 

十字架の道とは、生活のいたるところに隠れ潜んでいる小さな道であり、パラダイムの変換であり、心に納めていく作業なのかもしれない、と最近になって思う。

聖母を通してキリストへ倣う者である恵みを願い求めると当時に、このわたしに注がれる、丁寧で変わることのない愛の眼差しを、人知れず感謝のうちにたくさん注いでいただき、キリストの十字架に結ばれるものとされたいものである。

 

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