5年前、私たちはある決断を迫られました。
命の尊厳にかかわること。
手術をすれば、「命」だけは助かるかもしれない。
手術をしなければ、確実に「死」がやってくる。
その決定権は、意識のない本人ではなく我々家族に委ねられた。
「生きる」とは何か。
命があったとしても、
意識は戻らない、自発呼吸もできない、残りの時間は管につながれたまま。
そんな状態で生きていたいか?
私だったらいやだ。
そして、父も生前、よく私たちに話していた。
「何かあったとしても、延命治療などはしないでほしい」。
しかし、
いまそこに存在している父がいなくなる喪失感や
「自分たちの決断が、間接的に「殺す」ことになるのでは?」
何となくモヤッとした感情などがなかったわけではない。
だが、その我々の感傷のために手術をするのは、我々のエゴ。
本人のためにはならない。
本人はそれを望んでいない。
いろいろ話し合った結果、決断しました。
科学や医療技術の発展は、ときに人を苦しめるものだな、と思いました。
助からないなら助からないで諦められるのに
余計な選択肢を増やして、悩ませる。
だが、その一方で、
やはり我々にとっての「救い」も残していてくれたのでした。