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Strange Sky

世界はうさぎの穴に続いています

毎日が不条理。
そんな女が眺めるよしなしごと…

東方神起は作品なのか?

という論争がある。

SMエンターテインメント社のプロデュースした作品なのか?
という意味でもあって、SM社の所有物なのか?という意味でもあり、それらは誰が東方神起を名乗る権利があるのか、という論争に連なる。

欧米のProducer heavyなアーティストたちの中でもティーンの少女たちをほとんど唯一のターゲット(ゲイも含まれるか。。)としているボーイズグループは「作品」と呼ばれるにふさわしいものだろうな。若くて美しい男の子達を性のショーケースに並べる方式は、もちろん期間限定である。楽曲はキャッチーであればいいのであって、ダンスは彼らのキレイな肉体を見せるための方法に過ぎない。


そんなボーイズグループはティーンの女の子たち(あるいはゲイ)に性的なファンタジーを売るのがお仕事であって、その音楽性が正当に評価されること等はけしてないのだ。少女たちの憧憬を集めることはあっても、数年の命しかなく使い捨てられる「お子様の玩具」にはそれなりの評価しか与えられない。


そもそも、そう言ったボーイズグループの隆盛から何事かを学んだ人々が作り出したのが、日本や韓国の男性アイドルグループなのだから、プロデュース側が「作品」という意識を持つことは免れない。その上、東アジア独特の家族的な共同体意識が「所有」感覚をその上にプラスするのだろうか。家父長制なんて、日本でとっくに死語だと思われていた言葉が、韓流の導入で息を吹き返したところで改めて考えてみれば、「父」として君臨するプロデューサーの存在に行き当たる。


彼らはその「所有」を逃れようとした、というか、それだけが唯一の道ではないと訴訟によって見せようと試みたと言うことか。結局、その裁判と騒動の軌跡は韓国の芸能社、特にアイドルの羽化システムに変化を与えたけれど、それによって彼ら5人自身はまるで南極と北極に立ってでもいるかのように分断された。もっと言うと、南北に分けられた彼らの国のようでもある。


今、二人の東方神起を見返してみれば、彼ら自身は数年で終わりになる「作品」ではもはや無いように感じられる。相変わらず、プロデュース・ヘヴィではあるが、10年に近づくキャリアと、打ち出される二人の個性が絡み合う演出が、彼らが「東方神起」という「舞台」を演じる「演者」である事を知らせているように思うのだ。


騒動の過程から生まれた、1幕(5人の東方神起)、2幕(二人の東方神起)という表現は、2人になってから実体をより重く持つようだ。二人への進路変更が行われた際にもしかすると、そこの部分が大きく変質したのではないか?二人になってからの彼らが「パフォーマー」という表現で呼ばれる事が多いのも、単なる偶然ではないと思える。


そうしてみると現在の「東方神起」は、まさにSM社という会社を舞台とする演目(Act)の一つという事ができる。そこでは「少女時代」や「SJ」や、「SHINee」なども同時に上演されているわけだ。演目というタイトルであれば、自然なかたちでより多くの権利を企画社のほうに引きつけておくことができる。


これに対して、プロデュースされた作品であった1幕の東方神起。。。2幕あがってから1幕と呼ばれるものの、演目というよりは、作品として作られた、完璧なアイドルであった彼らは、その後半期において劇的に変化を遂げてきていた。欧米のミュージシャンのように、活動を司る本人達とグループ名のアイデンティティの同一化がどんどん進んでいたように見えるのだ。その変化はメンバーのオリジナル楽曲創作活動によって深化し、5人は、東方神起を自身の命や人生とカウントし、ファンダムの「5人でなければ東方神起でない」という言説によって、それは裏書がされかけていた。


3人は、その名前をSM社の外に連れ出そうと試み、それは叶わなかった。


2012年11月28日の法廷闘争終結が示したのは、芸能企画社は、個人の芸能人の給与や活動に対する基本的人権を確保とともに「東方神起」という名前の「演目」としての新たな解釈ではないか?「東方神起」という演目はSM社という場所から動かないという判断。しかし自ら「東方神起」のアイデンティティーを手放そうとしたわけでは無かった3人にとって、それは何を意味したろう。けして名前を争った裁判ではなかったにもかかわらず、3人にもたらされたのは「東方神起」としてのオフィシャルな「死」ではなかったか?