『豊川海軍工廠平和公園』
豊川海軍工廠は日中戦争をしていた昭和14年(1939)から戦争で使うための兵器の生産を始めました、
この豊川海軍工廠は、機銃の生産については日本最大の規模でした、
『東洋一の兵器工場』と呼ばれたとも伝えられています、
昭和20年3月には、12~13歳の国民学校高等科児童までもが集められて働かされるようになりました、
この工場で働いていた人は多いときは56700名もいました、
太平洋戦争が終わる間近の昭和20年8月7日に海軍工廠はアメリカ軍のB29 爆撃機、124機の空襲で、26分間に3256発もの弾丸にさらされ、2500人以上の人が亡くなり、大きな被害を受けました。
旧第一火薬庫全て土で覆われていて当時のままの姿で現存、
火薬庫の直ぐ横に500ポンド爆弾が落ちた
(500ポンド爆弾が落ちた跡)
火薬庫内の様子、当時のまま
火薬庫の鍵
第三信管置き場は土塁に囲まれて見えません