姑は、「息子と暮らしたい」と、夫との同居を切望している。
それは、徐々に、強くストレートになった。理性というブレーキも弱くなってきているのだろう。
その時々の気持ちに揺れはある。「一人で大丈夫」と言うこともあるが、「寂しい」と泣いたり、「なぜここにいないといけないのか、息子と暮らしたいのに」という怒りをぶつけたりする。
超高齢の姑には、「子は親と同居して看るのが当たり前」という思いがしっかりと根底にある。介護制度を「人様に世話になる」と捉えて嫌がり、その分、身内に全部求める。だから、それが叶えられないと、怒りも出てくるのだろう。「親不孝者!」という怒りが。
そして、もう一つは、「ここではない何処かへ」願望(私の造語です^^)。ここを出れば、現状の不便さや不満や不安は解決するという単純な考えなのだろう。高齢のために不自由な心身になっているのであって、それは仕方のないことだが、同居すれば違う世界がひらけるという希望なのだろう。特に姑は被害妄想で現状への不満を大きく抱えている。ここは安心できない所と認識している。だから、同居に安心を求めるのだろう。同居の長所部分だけが頭に浮かび、短所部分を考える冷静さはもうないのだろう。
母にも同居願望はあった。私と一緒にいたがった。「一人で家にいたくない」とずい分前から言っていた。そして、「ここではない何処かへ」願望も大きかった。療養中は、家にいれば入院したがり、入院すれば退院したがった。
父もそうだった。まだ会話ができていた頃、入院していた父を見舞って帰ろうとすると、「オレも帰る」と腰をあげようとした。帰れないことを伝えると、「オレを見捨てるのか」とポツリと言った。今でも、その時の言葉が耳に残っている。
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親をサポートしていると、こうしたことは必ずあると思う。こういう思いをストレートにぶつけられると、何とも言えない気分になる。
まず、こちらの罪悪感みたいなものをつつかれる。高齢の親なのだから、一緒にいてあげればいいのではないかと。特に、テレビ等で三世代家族なんかを見ると思う。こうしてあげるべきかなって。そして、それは容易いなことじゃないかと思えてしまったりする。
次に、考える・・・現実として考えると、大変なことだ。すると、正直な思いとして、親に苛立つ思いもわきあがる。安易(安易じゃないかもしれないが)に子に頼る親に。子が親を看るのが当然という高圧的なものへの反発というか、子ばかりを頼りにして・・・という苛立ち。充分にサポートしているのに、足りないと言われている気分になるのだ。
姑は被害妄想が強く、感情コントロールも難しい。私は今までに疑いをかけられたり、感情をぶつけられたりしてきた。医師からも介護者はうつになりますと言われた。私も自信がない。
しかし、その次にまた考える・・・・高齢で不自由な思いをして可哀想にという思い。先がそう長くないことは分かっている。ポツンと座っている姿が目に浮かぶ。そして、また会いに行く。(・・・で、行って撃沈ということ多し^^)
今、週に数回会いに行っている。でも、姑からしたら、時々会いに来るだけという思いなのだろう。しかし、言わせてもらえば、見えない所で様々なサポートをしている。ホントにいろいろなことをしなければならない。そんな部分はもう理解できないのだろう。「同居してくれない」の一点に思いは集中しているように思う。
夫も同居はしないと言う。その時々を切り抜けるしかないと。でも、「連れて帰って」と一緒に帰ろうとする姑に、心は揺れるようだ。
そこまで切望されると、姑が旅立った後にチクチクとした思いを引きずりそうだ。すると、そうさせられることへの苛立ちも出てくる。そして、上記のように、気持ちはまた一巡する。
夫と話す。「私達も年を取ったら、子ども子どもと言うんだろうか」と。子ども達に迷惑をかけたくない。が、そうした理性がなくなったら、心細さを子に求めるのだろうか。