江華島の〝農夫・木こり” 出身 と フゥ
そんな姿でばかり描かれている ≪哲宗≫・・・ですが
( ↑ 画像:お借りしました )
実は。。。 ちょっと~ ×
。。。。。。
哲宗とは
思悼世子の庶子(母:肅嬪 林氏)恩彦君(은언군ウ・ノングン)の孫
「思悼世子のひ孫」であり
「正祖イサンの異腹弟である恩彦君(ウノングン)の孫」
つまり 。。。
高祖父: 朝鮮王朝第21代「英祖」
曾祖父:英祖と(側室)暎嬪 李氏との間の「思悼世子(李愃イ・ソン)」
祖父:思悼世子と(側室)肅嬪 林氏との間の「恩彦君(李䄄イ・イン)」
父: 恩彦君の庶6男「(追尊)全溪大院君(李㼅イ・グァン)」
全溪大院君・李㼅の庶3男 が ≪哲宗≫
。。。。。。。。。。。。。
哲宗の祖父『恩彦君(은언군・ウノングン)』は
ドラマ「イサン」でも描かれたように
(画像: ドラマ「イサン」より 恩彦君)
正祖の異腹弟であり、正祖の後宮元嬪(ウォンビン)洪氏が
亡くなった後、 元嬪の兄洪國栄(ホン・グギョン)と共に
自身の長男(常溪君サンゲグン)を 亡き元嬪の養子とし
王位を継承させようと〝謀反を企てた” という罪で
1786年(正祖10) 息子たちと共に喬桐島(キョドンド)へ
流刑となります
喬桐島(キョドンド)とは
江華島の西、黄海上の
(今の)38度線付近にある島
「恩彦君へ死薬を!」と再三訴えの声が上がるも、
恩彦君は異腹兄正祖の保護の下 生き伸びましたが。。
1801年(純祖1)夫人(常山郡夫人 宋氏)と(亡き常溪君の)嫁
が天守教信者との理由で自決させられ、恩彦君もついに
そんな中で 。。更に年月は流れ
1830年(純祖30) 一人息子の孝明世子がもしもの場合
王位継承が危ぶまれるとの危機感から 。。。
純祖は 亡き恩彦君の6男「李㼅(イ・グァン)」の流刑を解き
漢城に戻します
その翌年(1831年)陰6月17日
李元範(イ・ウォンボム)後の哲宗は
全溪大院君・李㼅の 庶3男として
『朝鮮王朝の首都漢城(現ソウル)』で出生
1844年 閔晉鏞(ミン・ジニョン)等が元範の異腹兄元慶
(ウォンギョン)を王位に就けようと謀反を起こし処刑され
ると、元範はまた他の異腹兄と共に喬桐へ流刑、さらに
江華島へ移されました
その後、江華島で農夫や狩人として暮らしていた元範は
1849年陰6月 憲宗が崩御すると 純祖の王妃である
純元王后金氏が亡き純祖の養子とし 徳完君に冊封し
即位させます
。。。 ということで
江華島で農夫や狩人として暮らしていたのは
≪僅か5年≫ ・・・ でした
そして ちょっと 余談かも・・・ですが
哲宗(徳完君/元範)も 純祖の息子「孝明世子」と同じく
≪思悼世子≫のひ孫 なのです
ただ 。。。 違いは
≪思悼世子≫の正室(恵慶宮洪氏)の子が正祖であり
孫が純祖、そして ひ孫が孝明世子と
≪思悼世子≫の側室(肅嬪 林氏)の子 恩彦君であり
孫が全溪大院君(李㼅)、そして ひ孫が哲宗(元範)
流れは違うものの 「ひ孫」
純元王后が 『純祖の養子として』 にも
きっとこんな ≪わけ!≫ もあるのでは?
。。。そんな 気がします
でも そこで またまたちょっと疑問が ??
異腹兄が居たのに 。。どうして ≪元範≫??
実際にも元範には 三歳上の異腹兄が居りました
元範が徳完君冊封と共に兄も永平君となりますが
憲宗が崩御した1849年6月、
22歳のこの兄より 若い(19歳の)元範のほうが
大王大妃(純元王后)としては 操るのには
都合がよかったのでは?? と思います 悪
いろいろな思惑が 渦巻く
中
王位に就いた ≪哲宗≫
。。。。。。。まだもう少し
哲宗について
纏めたいのですが
一息入れて纏めますね
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韓国史劇朝鮮史
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