テレビ東京(地上波:関東圏)放送中の
ドラマ≪大君、愛を描く≫ (邦題:不滅の恋人)
史実とは違う部分が多すぎて
史実 繋げて考えたくない。。。 のですが
モデルとなっている ・・・ あくまでも 〝モデル”
首陽大君(チニャンテグン) と 安平大君(ウンソンテグン)
悪 チニャン VS 善 ウンソン とは言え
(画像 : 「大君、愛を描く」 第16話 より)
すこ~~~し 気の毒な気がして Marcall
チニャンテグン(首陽大君→朝鮮第7代王世祖) の
史実に伝わる ≪こんな部分≫
ちょっと 纏めてみたいと思います
このドラマ 視聴中の皆様 。。。 お付き合いくださいね
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
朝鮮第7代王 世祖 (李瑈 イ・ユ) イ・ガンじゃ無い
1417年11月2日(陰9月24日) 世宗が世子忠寧大君であった頃
忠寧大君と世子嬪沈氏の 次男として出生
翌1418年 父忠寧大君が王位に就くと、5歳位まで宮外で育てられる
理由ははっきり伝わっていないが、おそらく
即位してから相次ぐ国葬などにより、入宮の
適切な機会をつかみきれなかったのでは、と
兄である世子は早く入宮したし、 安平大君以降は父が即位した後
出生したので生まれてからずっと宮中で育ち、このことが大きな差を
呼ぶこととなったのでしょう ウ~ン
1428年(世宗10) 「晉平大君(チンピョンテグン)」 封爵
1433年(世宗15)6月27日 「咸平大君(ハㇺピョンテグン)」とするが
咸興(ハㇺフン)の別称である咸平縣と混同するとの理由で
すぐに 7月1日 「晉陽大君(チニャンテグン)」と改封
以降 約12年間は この 「晉陽大君」 を
安平 晉陽(後の首陽)
(画像 ドラマ「大王世宗」 より
1445年(世宗27) 「首陽大君(スヤンテグン)」と再度 改封
その後 王位に就く 1455年までは この「首陽大君」 と
王子の 称号(封爵)は 改められることは有りますが 。。。
晉平大君→咸平大君→晉陽大君→首陽大君 と
4回も 改封された大君は 他には居ません
改封するのは 父王の意志 。。。が大きいと思います
「首陽大君」 と改めた理由は はっきり伝わっていませんが
ドラマ≪大王世宗≫でも描かれたように
優れた資質を持った次男に 危惧した父王世宗が
兄弟仲良く支えあって行ってほしいとの思いを込めて
「世子の弟たちの〝長”として 兄(世子)を支えて
貞節を尽くせ」 と願い 命名したのではと思います。
ちょっと 。。。 オマケ
ソ・ジュニョン君 ドラマ≪根深い木≫ では
世宗の5男 「廣平大君」 の役を演じてますww
可哀そうですよね~~~首陽大君 ちょっと不憫
小さい頃の 記憶が ・・・
このようになってしまったのも 大君だけのせいでは無い
。。。 そんな気がしませんか
そして 色々なドラマ・映画で描かれているように
武術・馬術 そして 弓を打つ技に秀でていた 「首陽大君」
( ドラマ「大君、愛を描く」 より 首陽大君)
(映画「観相」 での首陽大君) ~
幼い時期に父母から離れ自由に動き回って育ったことが、
卓越した運動神経、体力となる反面 。。
自由奔放な気性となったのでしょう
朝鮮王朝実録によると こんなお話しがあるようです
朝鮮王の中で 一番多く馬に乗って出かけた王だそうで、
落馬することも有り (面白い事に)
その都度、何事も無かった様に振る舞った。。。そうです
落馬 と言うと 運が悪ければ大事故に
度重なる落馬にも 大事にならないという事は
。。。 強運だったのかも ネ!!
その他にも たくさんのベテラン俳優さんたちも演じた『首陽大君』
色々 調べてみましたが どこかのに書いていました通り
朝鮮王朝 第7代 ≪世祖≫ と言う名より 。。。
王子時代の ≪首陽大君≫ の名の方が
私たち皆に 多く知られている
と 言うのも 面白いですね
テレビ東京(地上波:関東圏) 放送中の
≪大君、愛を描く≫ (邦題:不滅の恋人)も 残すところ 4話
史実云々は 抜きにして どうぞドラマの≪結末≫をお楽しみ下さい ネ!!
文責はMarcall に有り、充分に調べたつもりですが
確実なものではありません。 違訳や思い違い、
追記や訂正も有るかもしれませんがお許し下さい。
どうぞ、一説としてお読み頂けると嬉しいです
ご理解の上、画像も含め転記転載はご遠慮ください