『文宗哀話』 死後も尚、寂しく〝독수공방(獨守空房)” 。。。後半 | Marcallのイケイケ韓国ブログ

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子供の受験勉強と一緒に韓国語を勉強し始め、娘息子は父母に。私もハルモニ~♡
 根底に流れる〝史実”を知って、 もっと楽しく『韓国史劇』を観ませんか?
歴史大好き ♡ Marcall の 『アジュンマ目線で歴史探究』  どうぞ皆様ご一緒に♪

           BSでの初放送もすでに終了 ドラマ≪チャン・ヨンシル≫


           このドラマでも出てきた ≪朝鮮王朝第5代王 文宗≫



             その薄幸な生涯 皆様もよく御存じと思いますが


               更に ≪死後も尚≫ 寂しかった文宗の史実




                  

 


                前回訪韓時 たまたま出会った本


             ≪왕을 낳은 후궁들(王を産んだ後宮たち)≫ より


                皆様にご紹介してみたいと思います          


 

                     。。。。。。。。。。。。。。。。。



         注意 訪韓する楽しみの一つが、このような歴史書との出会いです


            本屋さん・古本屋さん巡り、そしてたまたま駅の構内の


            小さな「本コーナー」でも 興味深い本と出会う事もあります。


            ドキドキ嬉しくって買って来た本がかなりの数になりました 冷や汗


              上手に訳せるか解りませんが、歴史ドキドキな皆様に 


              ドキドキワクワクご一緒していただきたく纏めてみました


            間違い等もあるかと思いますが、どうぞご了承くださいね ゆるして


            ご理解の上、画像も含め転記転載はご遠慮ください 禁止&



                       。。。。。。。。。。。。。。


 


            


         ドラマ「チャン・ヨンシル」 より   右;世子(後の文宗)

 


           secret ≪朝鮮王朝第5代王 文宗≫


     1442年(世宗24)  父王世宗は世子への庶務決裁権の譲渡を断行、

 

                   以降 世宗が亡くなる1450年まで 世子が

 

                   摂政として政務を担った。



     1450年 世宗崩御により、王位継承し 朝鮮王朝第5代王即位(文宗)


     1452年6月1日  在位わずか二年 原因不明の病により崩御


                    享年38歳   (鬱病だったとの説もあり



      哀しくも 文宗は存命中最後まで≪正室(王后)を持たぬまま≫ 崩御 



         ここまでは  前回のブログをご覧ください コチラ → 前半



     今回は ≪死しても尚、寂しく〝독수공방(獨守空房)”≫


        〝ひとりぼっち”だった文宗  。。。 について纏めてみます




       文宗にとって〝三番目の世子嬪”となり後の端宗となる王子を出産後


         翌日亡くなった権氏 。。。


       もしも文宗がその後〝四番目の世子嬪”を迎えていたならば、権氏が


       王后(顕徳王后権氏)追尊 されることも無かったでしょう。


       しかし、文宗はその後正妃を迎えぬまま王位に就いても尚 王后の座を


       空けたまま生涯を閉じました。



          それが権氏にとって、はたして幸せだったのでしょうかDASH!


          哀しい試練の始まりにもなりました  しょぼんDASH!



             secret 文宗妃≪追尊:顕徳王后権氏≫


      1441(世宗23)  7.24  王子(後の端宗)出産翌日 24歳で崩御


                   9.14  諡号「(顕徳嬪」を賜り 


                   9.21  埋葬される


      1450(文宗即位年) 7.1  顕徳王后追尊 墓を「昭陵」と昇格


      1452(文宗2)   5.14  夫である文宗が崩御すると 。。。


                         幼い世子が王位を継承(端宗に)

 
 
      1454(端宗2)   7.16  王后の神主も文宗と共に「宗廟」に祔廟



               しかし 。。。 哀しいガーンDASH!


 

      1453(端宗1)  10.10 癸酉靖難により 端宗を名ばかりの「上王」


                        の座に就け叔父である首陽大君が王位に


                        就くと(世祖)


      1456(世祖2)  5月   死六臣を誅殺し端宗を廃位「魯山君」とし、


                       寧越へ流配すると、亡き母顕徳王后の母(阿只)


                       弟(権自愼)も端宗復位を企てたとして処刑


                       亡き父権專も廃庶人とされる 


 

          注意 ドラマなどで描かれているように


            世祖の息子である懿敬世子が死んだのは夢に出た


             顕徳王后のせいだ!としたとの説も伝わります



      1457(世祖3)  6.26 顕徳王后廃位、「昭陵」を破壊


              注意 すでに 文宗の陵(顕陵)へ移葬されていたとの説も


                 有りますが この本では まだ「昭陵」と。



                 宗廟に祔廟されていた神主も撤去 




       哀しくも ≪文宗は死しても尚 寂しく〝독수공방(獨守空房)”≫


                 となりました。




              それから 60年近く経って 。。。



      1513(中宗8)  4.21   夫である文宗の傍に埋葬(東九陵内:顕陵)


                  5.6    神主を文宗の神室に配享




 

      考えれば考えるほど ≪文宗と顕徳王后権氏 そして息子端宗≫


         の哀しい運命  。。。   やるせない気持ちが募ります しょぼん




        ドラマとドラマが繋がって 哀しい姿が目に浮かびませんか はてなマーク


        今回も 長文におつきあい頂き 有難うございました。



        朝鮮王朝史ドキドキな皆様の 楽しいコメント お待ちしてます  sei