久々にBSで放送された ドラマ≪王女の男(原題:公主の男)≫
ちょうどいいから纏めてみようと
すでに放送終了してしまいましたが
前回の訪韓の折買って来たの中から 〝こんな事”
参考文献: 「王を産んだ後宮達」 より
追記) このは 題名の通り 。。。
王の正室(王后)ではなく側室(後宮)で有りながら
王の跡継ぎ(次期王)を産んだ後宮達 八名について
その生涯を中心に書かれた本です。
その中の一人 ≪端宗の生母〝顕徳王后権氏”≫
について書かれている部分の中から となった事
が有りましたので、訳してご紹介してみました。
≪ 朝鮮王朝第5代王 文宗
死後も尚、寂しく〝독수공방(獨守空房)”≫
ちょっとご紹介してみたいと思います。
文責はMarcall に有り、確実なものではありません。
違訳・思い違い等あるかと。更に、訂正追加することも。
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画像は ドラマ「王女の男」からお借りして
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とうとう〝端宗は首陽大君に王位を譲り、形ばかりの上王に
そんな悲しい場面から
少し遡りますが 端宗のこの「悲しい運命」の〝発端”は 。。。
あの世宗大王の長子であり端宗の父、そして首陽大君の兄≪5代王文宗≫
ドラマの中での文宗はこんな姿で 。。。
冷ややかな目で 兄である王の異変を見つめる首陽大君
王(文宗)の 哀しい〝最期” が描かれました
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以前、ドラマ「大王世宗」を観ながら 世宗の元子(嫡長子)であり
世子(珦:ヒャン) ・・・世宗の王位を継承し第5代王となるこの『文宗』
の薄幸な生涯について 以前てみました。
コチラをご覧ください → 世子珦(ヒャン:後の文宗)
このように 文宗は 世子時代 二人の世子嬪を迎えますが
最初の世子嬪 徽嬪金氏 (父方の叔母は太宗の後宮明嬪金氏)
≪廃位・出宮≫
( 世宗実録 1429年(世宗11)7月20日)
金氏は父により殺され、父も自害する (異説有り)
1429年、迎えられた 純嬪奉氏 ≪廃位・出宮≫
( 世宗実録 1436年(世宗18)10月26日)
。。。 父王世宗はとても無念であったでしょう
最愛の息子の嫁を 続けて〝廃位”させることになるとは
1431年(世宗13) 世宗は18歳になっても跡継ぎの居ない世子を
心配し、三人の後宮を迎えます。
まず、世子宮の後宮制を 「従二品:良娣/従三品:良媛/
従四品:承徽/従五品:昭訓」 と体系化し
権氏・洪氏・鄭氏 の三人を 「従四品:承徽(スンフィ)」で迎える。
権氏が 長女(~1433) 早卒 と
次女:後の敬恵公主(1436~1473)を産み
「従三品:良媛(ヤンウォン)」 に
1436年10月 二番目の世子嬪であった≪純嬪奉氏≫が廃位
されると、世宗は悩み全国へ世子嬪選びの通達をしたものの
決定する事が出来ずにいた。 「後宮から正室にしては?」と
の大臣の意見に悩んだ末、同意することにした。
世子は洪氏を(三番目の)世子嬪に望んだが、洪氏より権氏が
少し歳が上で、更に品階が上で有ったので
( 洪氏も 娘を一人産んだ (早卒)
との説もありますが 。。。)
1441年 権氏は 長男:後の端宗(1441~1457)を産むが
翌日死去。
二人は廃位、権氏は産後病死と三人の世子嬪を失った世子は
その後、正室を迎えぬまま世宗の後を継ぎ ≪第5代文宗へ≫
亡き権氏も 王后(追尊:顕徳王后)される。
内命府の管理は 洪氏(貴人→肅嬪 洪氏)がしたものの
文宗は存命中最後まで≪正室(王后)を持たぬまま≫ 崩御
したという事になります。
質問頂きました 追記いたします
内命婦 とは ・・・ 朝鮮王朝時代、宮中の女官として
品階を受けた者(宮中に仕えた女官)
(対) 外命婦
朝鮮王朝の女性たち コチラ → 内命婦
→ 外命婦
。。。 懲りちゃったのでしょうか(笑) それともきっと
王子を産んでくれた権氏へのだったのでしょうか
文宗には 他に数人の後宮を持ち その中で
昭容:鄭氏と尙宮:張氏が それぞれ王子を一人ずつ産むも
共に幼くして死 (早卒)
端宗と敬恵公主の他には ≪司則 楊氏の産んだ敬淑翁主≫
文宗は生涯≪一男二女≫ だけでした
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以上が 大まかですが
≪文宗が亡くなるまで≫ の 哀話 でしたが
。。。 次回、ちょっと頭を冷やして
≪死しても尚 ≫ なところに迫ります。
皆様 「잠깐만 기다리세용~」
チャッカンマン キダリセヨ~ン
。。。 後半へ続く