この ドラマ「花たちの戦い、宮廷残酷史」 の余韻を


ドラマでは 廃位され宮外に出された趙氏は 。。。
怒った民衆たちから石をぶつけられて死んだ、と描かれましたが
実際にはそうではありませんでした。
それでは 。。。 実際にはどのように

そして・・・残された子供たちも どうなったのでしょうか


まとめてみようと思います。

。。。。。。。。。。。。。。。。。
朝鮮王朝16代王仁祖は 1649年(陰)5月8日、世子(後の孝宗)に
死ぬ直前まで孝明翁主と崇善君、樂善君を守るよう言い残し亡くなりました。
。。。 そうです
実は趙氏
1641年に もう一人王子〝樂善君”を産んでいました

ドラマでは 何と
自らお腹の子を流産させたと言う事に


当時、13歳であった孝明翁主(1637生)には政治的に婚姻を結ばされた
夫(金自點の孫)金世龍が居ました。
そしてなんとまだ11歳であった崇善君(1639生)にも申翊全の娘を!!
夫人が居りました。
崇善君の夫人(申翊全の娘) ・・・とは

更にMarcall ビ~~ックリ


実は この崇善君の夫人〝永豊郡夫人申氏” の母って



(ドラマ「花たちの戦い」 荘烈王后趙氏)
なんとこの〝仁祖の継妃「荘烈王后趙氏」の姉” だと言うのです。
色々な思惑が交差して婚姻関係が結ばれるのでしょうが驚きです。
母である趙氏(ドラマではヤムジョン)は崇善君の夫人申氏を嫌い、孝明翁主の
はした女であった英伊(ヨンイ)を可愛がり、崇善君と暮らさせたと言うのです。
ドラマでも〝ヨンイ”という名が出てきましたよね

またまたビックリ~~~


このドラマでは、ヤムジョンに仕える女官として!ですが
。。。 すごいです

色々考慮されて作られてる


≪韓国史劇≫ 本当に面白い

またまた 脱線しちゃいました
この位に (笑)平素より、仁祖と荘烈王后の仲を裂こうとしていた趙氏は、結局1651年
(陰)11月23日金自點と共に〝荘烈王后と崇善君夫人申氏(王后の姉の娘)を
呪う事件”が発覚 。。。 (〝金自點の獄”と呼ぶ)
怖いですよね~!! 息子の嫁まで!ですから


趙氏(ドラマ中のヤムジョン)は、陰12月14日〝賜死”とされますが、父王の寵愛
を考慮した孝宗は貴人趙氏の称号は廃位せず、葬礼も「正一品貴人」の禮で執り
行うよう命じました。 。。。ドラマと同じだったのですね、感動です

孝明翁主にも治罪をとの声が上がるも、孝宗は認めず放免とし夫の金世龍のみ
死罪としました。
。。。 その後、孝明翁主は

爵位剥奪され「김처(金の妻)」と呼ばれ、通川(トンチョン)へ流配
されますが翌1652年、通川が寒いと言う理由で利川へ移配され、
1655年には孝宗の命により、弟(崇善君・樂善君)が流配されている
喬桐(キョドン)へ移され弟たちと共に暮らし、1658年遂に釈放
されるものの生涯監視下に置かれながら1700年(粛宗26)64歳
の生涯を終える。
崇善君と樂善君はどのようであったかと言うと、弟たちには罪はないとの孝宗の
反対は有ったものの、結局1652年廃位され喬桐(キョドン)へ流配されるものの
孝宗は暮らしの援助を続け、1656年釈放となり最終的に1659年(陰)1月
復位され、 1690年(粛宗16)陰1月6日 崇善君が 52歳
1695年(粛宗21)陰3月14日 樂善君は 55歳で亡くなった。
粛宗王は二人に対し、病に際しては御醫を送ったり、その死に際しては
直接 哀悼をし、丁重に弔ったと言われます。
。。。 如何ですか
粛宗が大切にしたこの 崇善君の息子が あの〝東平君(トンピョングン)”ですから
ドラマ≪張玉貞、愛に生きる≫ での東平君と粛宗の仲のいい姿

が目に浮かびませんか 


それと 。。。 大事な事を書くの忘れていました

ドラマと大きく違っていたことが

この一連の事 ≪金自點および一家の処刑から貴人趙氏の死まで≫が
ドラマ「花たちの戦い~宮中残酷史」では
〝孝宗即位間もなく” で描かれていましたが
実際には このように 1651年(孝宗2)の事

即位したのが 1649年ですから
即位して三年目の出来事だった・・・と言う事でした


。。。 深~く追究
達成感と共にちょっと疲れちゃいました~~


ひとまず 。。。 仁祖・貴人趙氏関係は

また
が出てきたら ドラマ「華政」の進行に合わせて調べたモノを書こうかな~と思います


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