♡実像に迫る♡   9(最終章).淑嬪チェ氏は本当に粛宗に愛されていたのか? | Marcallのイケイケ韓国ブログ

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子供の受験勉強と一緒に韓国語を勉強し始め、娘息子は父母に。私もハルモニ~♡
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歴史大好き ♡ Marcall の 『アジュンマ目線で歴史探究』  どうぞ皆様ご一緒に♪

           思ったより、長くなってしまいました。。。。

     ≪粛宗とその周りを取り巻く女性達≫ その愛憎を追及してみたいとかげ


   2011年5月 「ドラマを繋げて/推奴~チャンヒビン~同伊~イサンまで」

    と言うブログを書いて以来、ずっとモヤモヤショック!モヤモヤ していたこと。。。

         すっきりとはいきませんが 一区切りできそうです。


     長々お付き合い ・・・ 呆れてしまいましたよね、ごめんなさい ごめんかんにん

      それでは 。。。 なにとぞだれだワンちょんまげ萌え!!はてなマーク もう一回だけお付き合いを。



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       (今回も ドラマ「張玉貞、愛に生きる」の画像お借りして)

               すべて「陰暦」表示です。

        注意 文責はMarcall にあり、間違いも有るかと思います。

          どうぞ一説としてお読みください。間違い等お気づきの点

           が有りましたら、お知らせくださいねニコニコ

        皆様のご感想など、楽しいコメントもぜひよろしくお願いしますラブラブ


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                  淑嬪チェ氏

             ずっとモヤモヤしていた事ビックリマーク

           「淑嬪チェ氏はそれほど綺麗では無かった」 。。。 

              じゃあ、粛宗はなぜガーンえ… 


          ドラマ「同伊」のトンイ・・・だなんて嫌ですよね~~! えっっ…あせる



               。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



   粛宗とチェ氏が初めて会ったのは、閔氏が廃位されて三年が過ぎた頃

        (1692年頃)のある晩 。。。その8.メモご参照ください



   この頃、少しずつ〝王后張氏(オクジョン)に不信感が芽生えていた粛宗

   このチェ氏の行いに ホロッとなってフラッ恋の矢は事実でしょう・・・た・ぶ・んむっDASH! 


    本 ≪1694年4月 廃妃(仁顕王后)復位。。。『甲戌換局(カプスㇽファングㇰ)』

          それに伴い 廃位されていた金氏も復位(貴人に戻る)長音記号2①

        王は張氏の兄張希載を拘束、閔氏を入宮させ「王后復位

                ・・・張氏を禧嬪へ降格」の備亡記を命じました。

      本 粛宗実録 1694年4月12日

        『王は、張氏の父チャン・ヒョンの府院君及びその妻の府夫人の

         教示を燃やすよう命じ、また張氏の王后〝玉寶"を壊すよう

         命じた』    玉寶(オㇰボ)・・・王・王后の称号を刻んだ印形



    当時「老論と少論」二つに分裂していた西人派の内

     「閔氏復位を願う〝老論″と 世子の事を考え張氏はそのまま王后へ

     閔氏は離宮にと言う〝少論″」と 激しく対立しましたが、

     結局王は 「閔氏復位、張氏禧嬪降格」を命じました。

          
               。。。。。。。。。。。。。。。。。


            チェ氏 。。。

   1693年    従4品淑媛(スグォン)冊封・・・正式に側室に

    10月6日   王子・永壽(ヨンス)産むも2か月で死亡

   1694年4月  廃妃閔氏「王后復位」に伴い特命により「従二品淑儀(スギ)」

    9月13日   王子・延礽君(ヨニングン)を出産・・・後の英祖

   1695年    従一品貴人(キイン)冊封

   1698年    王子を産むもすぐに死亡。

   1699年10月 (前年1698年の端宗復位に伴い)特命で「正一品淑嬪


               。。。。。。。。。。。。。。。。。。



           粛宗が フラッとなった女性が 他にもビックリマーク ガーン


      調べていくと。。。 他にも フラッ恋の矢 とした形跡プンプン有るのです。

                 コチラはもちろんのことと思われますし・・・


   チェ氏より先に フラッむっとなった 尚宮朴氏(Marcall第五のおとめ座と称したy’s

   1698年11月 従四品淑媛冊封・・・正式に側室に

   1699年10月 (チェ氏同様 端宗復位に伴い) 「従二品淑儀」 

              王子・延齢君(昍フォン) 出産

   1701年3月23日 (承政殿日記による・・・粛宗実録には記録無し)

              「従一品貴人」に

   1702年10月18日 (同年の継妃・仁元王后冊封を祝い) 

              「正一品榠(または示+冥):ミョン嬪」に


     注意 同日、他にも  ①(貴人に復位されていた)金氏も「寧嬪(ヨンビン)、


           (↓詳しく ②)  淑儀劉氏を「正二品昭儀(ソイ)」に




         ② またまた〝尚宮″です~ぷぷ  


              劉氏とは。。。



      1698年8月2日 従四品淑媛冊封・・・正式に側室に

      1699年10月 (チェ氏パク氏同様、端宗の復位に伴い)「従二品淑儀」


         そして 注意 上記のように 朴氏・金氏と共に

      1702年10月18日  (継妃・仁元王后冊封を祝い)

                        正二品「昭儀(ソイ)に なりました。


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       閔氏が復位「王后へ」、 張氏が降格「禧嬪へ」 

     張氏の「玉寶(王后の印)」は壊され、張氏(亡)父・母の爵号の剥奪

              数年が過ぎ。。。

     粛宗の張氏への疑心は、その後も消えることは無く、次第にその足も更に

     遠のくようになると王の足は 特に二人の淑儀(当時)「朴氏・劉氏」ひらめき電球

     向いた
そうです。 二人のもとに足しげく向かった王により 。。。 にひひ汗


         「朴氏が懐妊 1699年王子(延齢君:ヨリョングン)」を出産」



            。。。 ヒミツ 足しげく通ったおとめ座 「チェ氏の名前が叫び無
                    


   1701年(粛宗27)8月14日 

          仁顕王后閔氏が病状が悪化35歳の生涯を閉じる。


      なんと ガーンはてなマーク 一か月が過ぎた頃 チェ氏は王に

    9月23日 「禧嬪が亡き王后を呪いの祈祷をした」と密告 ドクロDASH!


         これがなんとも ≪大きな疑問≫なのです。

     何故この時期に 。。。 もっと早く告げるべき、告げられたのではガーンはてなマーク

     これが ≪淑嬪の野望説≫が論じられる大きなポイントのようです。

     ≪王后の座を狙っていたのかはてなマークと言われるのもこのせいでしょう。


    遂にこれが決定的なものになったのは間違いなく 。。。。禧嬪の運命は確定ドンッ


     しかし 王は なんと禧嬪に「賜死(自害)」を命じる〝前日”

     本 1701年(粛宗27)10月7日 

       ≪嬪御(後宮)から王后の座に上がらせるべからず≫の命を下す

                。。。 ヒミツここにも ≪チェ氏≫と王との関係ひらめき電球ガーン汗


        遂に 翌10月8日   「禧嬪に賜死(自害)の命が下されます」


                   
                   
               

         ドラマ「張玉貞、愛に生きる」のこの感動的なシーン叫び思い出すと

            なんだかショックを感じますが 。。。

                    どうも事実はちょっと違うようですねしょぼんDASH!


     そして  禧嬪張氏が絶命したのは何時かはっきりしませんが

     10月10日 葬儀を行うよう命が出ている所から、8~10までの間だと。

               
           ≪この一連の事件を惡ドンッ 『巫蠱の獄』 と言います≫



                 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


            その後の事は簡単に メモ

     禧嬪死後、継妃(仁元王后)が入宮する前1702年5月に淑嬪が「宮の外」

     に出されたと言う説も有りますが明確ではないです。。。ただし

        本粛宗実録 1704年(粛宗30)4月17日 三番目の記事

          延礽君の邸宅を決める際の記述が有るのですが、

          その中に 「母チェ氏が梨峴の大邸宅」に居るのに別に構えさせる

          亊に王は躊躇いの感を述べているようです。


     実際に 本粛宗実録 1711年(粛宗37)6月22日 二番目の記事

          「淑嬪の住む梨峴房は他に比べようのない位大きく、傍を通るたび

          こころが痛む。 淑嬪の居処を王子の邸宅に移すよう」に命じます。


      表向きは財政を憂いて・・・でしょうが、王はそのそばを通れども淑嬪の

      住む「梨峴房」を訪れた様子が見当たりません。


          皆無かどうか~~~は解りませんが、

       どうやら ≪粛宗は本当に淑嬪チェ氏を愛していたのでは 

                        にひひチョキ無ドンッ
 気がします。


           じゃあなんで ≪子供が三人むっはてなマーク≫って にひひあせる

          これは 。。。 この時代だったから ・・・ でしょう (苦笑)


   1718年3月9日 49歳で延礽君夫妻と住む私家で亡くなった淑嬪崔氏

          王は葬儀を十分に取り計らうように命じ官員を送ったものの、


          自身は出向くことは無かったようですし 。。。。

        なんとわずか五日後には喪服を脱いだという話も出てきました。



     ここまで来ると 。。。 なんだか ≪粛宗に関してもむっむかっムッ≫とした

            思いが出てきます Marcall プンプンDASH!DASH!


        すご~~~くドキドキ好きな(笑) アイン粛宗 なの・で・す・がDASH!

                      ちょっと ふーふぅ です。  (苦笑)


                
      でも! 皆様~~~ ≪淑嬪チェ氏は 同伊では有りませんビックリマーク

                 トンイの あくまでもひらめき電球ひらめき電球モ・デ・ル! ごめんあせる


  
                    どうぞ お許しを~~~ごめん ね



        それでは 。。。。。 ちょっと疲れちゃいましたので (笑)

            アイン粛宗ドキドキの可愛い姿で お休みなさい~犬?ぐぅぐぅ


                




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