衛星劇場での日本初放送も 。。。 今夜 「9・10話」 テレビキラキラ


  とうとう 粛宗とオクジョンのドキドキ愛は ~~~ 遂に 大きく恋の矢動き出します。


      そんな 今晩の放送の前に 前回(8話)で 


    ≪粛宗の腕の中で・・・儚くも幸せな想いラブラブを胸に・・・亡くなった「仁敬王后」≫


     このドラマの中でも、純粋で可愛い姿で描かれていたこの王后の


     実際の姿、そして ≪粛宗とのあいだ≫は実際にどうだったのか


     とても気になり、調べてみました。



  でも、その前に どうしてもここから調べる必要がひらめき電球DASH!あると思います。


     ≪世子(イ・スン/後の粛宗)の母:18代顕宗正妃『明聖王后金氏』 と


          16代仁祖継妃『荘烈王后趙氏』 ≫の確執 です。


       ドラマの中でもスンを挟んで「母」と「(義理ではありますが)曾祖母」


         激しい〝火花″を散らせますドンッメラメラドンッ



           。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



         ( 画像・・・ドラマ「張玉貞、愛に生きる」より )



      世子(イ・スン)にとって最初の妃となる ≪仁敬との桜出会い目≫は


      こんな風に綺麗に描かれていました。キラキラ


      粛宗が唯一心を許すラブラブ存在である叔父東平君の主催する集まり・・・


      今で言う「合コンにひひあせる」みたいな名門の子女の集まりで こんな風に遭遇ハチ



       


    後の「2仁顕王后(イニョンワンフ)」と「1仁敬王后(インギョンワンフ)



     結婚は「政治の手段にすぎないシラーメラメラと世子(後の19代粛宗)は密かに


     仁敬の父、金萬基(キㇺ・マンギ)に取り入って裏で王妃にすると約束。


     その代り、協力を求める。怯む萬基であったが、娘の「一途に世子を慕うドキドキ


     言葉に。。。協力を約束する。  そして・・・ 「世子嬪揀択(カンテク」の当日



       世子は「仁敬」を選びますビックリマーク


      ( 政治の道具として ・・・ 仁敬の愛ドキドキを利用したのです )



        母:明聖王后は血相を変えて叫び


    注意(18代顕宗正妃)明聖王后金氏 1642.5.17生~1683(粛宗9)12.5没)


    当時の最高権力西人派に属し、(後の粛宗継妃仁顕王后の父)閔維重(ミンユジュン)


    の力と財力に頼っていたため、裏で仁顕を世子嬪に据えると約束を交わしていた


    が、世子はそれを知って敢て仁敬を選んだ。


    実際にも、政にも多く関与した強い王后であったと伝わる。少数派南人に属した


    先々大王仁祖の継妃であった荘烈王后趙氏(ドラマでは「趙大妃」、粛宗即位後


    は「大王大妃」)との確執が激しかった。 しかし、その趙氏より先に・・・


          1683(粛宗9)12.5 昌慶宮で42歳の生涯を終えた。



         一方、「趙大妃」は大喜び音譜


     注意(16代仁祖継妃)荘烈王后趙氏 1624.11.7生~1688(粛宗14)8.26没)


      1638年秋、15歳で44歳の仁祖の継妃となるが、すでに仁祖には寵愛する側室 


      シャープ昭容趙氏(ソヨンチョ氏)が居た。 


             シャープ朝鮮最高の悪女といわれる昭容趙氏(ソヨンチョ氏:ヤㇺジョン)


               の生涯を描いたドラマがもみじ「宮中残酷史ー花たちの戦争」です。


               ドラマ馬「馬医」でも冒頭部分に「仁祖を手玉に取る姿」で登場


               しましたね。        


      幼い継妃には内命部をまとめるのは大変な事でした。子は産まなかったが


      1649年仁祖が崩御した後も長く・・・


          ~孝宗~顕宗~そして、粛宗~  の代まで生き


              1688(粛宗14)8.26 昌慶宮にて65歳で死亡。 



              。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


 

      つまり 明聖王后は孝行息子粛宗に並々ならぬ期待を込めて


      自分が支持する「西人」政権をより強固なモノにしようとし・・・


      王室の『長老』として君臨しているのは形だけ後ろ盾も弱い


      「南人」を支持する大妃は、南人政権を築くために「玉貞」を利用し


      明聖王后への積年の思いを果たそうとするのです。 ドクロドンッドクロ


             。。。本当に≪女性≫は恐ろしい~~叫びあせる


               (私も ・・・ 女性ですが、 い・ち・お・う べーっだ!汗



              。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。             


 

    そして 。。。 本日もオマケを一つビックリマーク


      18代顕宗王后(明聖王后)と16代仁祖継妃(荘烈王后)の確執メラメラ


         とすると ・・・ 何だか〝抜けてる″と思いませんかはてなマーク



      そうですよね~ ≪仁祖の跡を継いだ17代孝宗の妃は~はてなマークです。


        じ・つ・は この頃、その≪17代孝宗正妃仁宣王后≫


        息子(顕宗)在位中は存命していました。


           ドラマ馬「馬医」 (時代背景「18代顕宗」代)には


           きちんとその〝姿″が登場していました。


             ドラマ「馬医」より


             (「馬医」には王:顕宗とスッキ公主ラブラブの母として登場しましたね。


              でも、こちらにはこの「荘烈王后」は出ませんでしたが~~にひひあせる


                ・・・ ドラマはドラマですね、共に素敵キラキラだからチョキOKにします


            ドラマ「馬医」の明聖王后です ↓ 控えめで優しい雰囲気でにひひ


            本来の強~い姿は「皆無あせる(笑)



     ドラマ「張玉貞、愛に生きる」では登場しなかったこの


        もみじ≪16代孝宗正妃仁宣王后張氏 (顕宗の母)≫ とは


           1618.12.25生~1674(顕宗15)2.24没


        1男6女を産み、(一人息子である顕宗が同年8月18日に34歳で崩御


        の僅か半年前の1674.2.24 昌慶宮にて57歳で死亡。



            。。。 と言う事は、 


            もみじ史実もみじ 粛宗は 


            世子時代である1670年(顕宗11)3月、10歳で同い年の


            仁敬を世子嬪に。1674年8月顕宗が亡くなると王位に(粛宗即位)


            に伴い王后に。1680年(粛宗6)10月2日天然痘で死去(享年20歳)


            翌1681年(粛宗7)、21歳の粛宗に15歳の仁顕が継妃として


            入宮するのです。   (実際は幼~いガーン汗頃だったんですね)



        つまり、この世子の初婚礼の頃は 祖母≪仁宣王后(大妃)≫は


        存命中~~チョキ でした。


              (ドラマのイメージ崩してしまいました、ミアネヨショック!あせる




           。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



      それでは ・・・ ちょっと 頭を冷やして~~にひひ汗


           次回は この ≪儚く散った仁敬王后おとめ座≫の生涯について


        (実は。。。ドラマとちょっと違うラブラブ!あせるちょっとホッとするようなひらめき電球ことがビックリマーク


           続けて 書こうと思いますメモ どうぞお付き合いくださいませ~~ラブラブ