♡面白史実!2弾♡  映画「風と共に去りぬ?!」   ~二人の〝深~い関係″~ | Marcallのイケイケ韓国ブログ

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子供の受験勉強と一緒に韓国語を勉強し始め、娘息子は父母に。私もハルモニ~♡
 根底に流れる〝史実”を知って、 もっと楽しく『韓国史劇』を観ませんか?
歴史大好き ♡ Marcall の 『アジュンマ目線で歴史探究』  どうぞ皆様ご一緒に♪

  それでは... 続き、 これがとっても〝奇想天外にひひチョキキラキラ

 

     映画≪風と共に去りぬ?!≫もみじに登場する人物の〝実像″です。



  3  実在する人物たち


    この映画の〝主人公″


     もみじ李徳懋(이덕무:イ・ドンム) 

 

     1741年(英祖17)6月11日生~1793年(正祖17)1月25日没 


            (チャ・テヒョン)


       朝鮮後期の実学者。 本貫・全州


   字:懋官(ムカン)  号:炯庵(ヒョンアㇺ)、雅亭(アジョン)、靑莊館(チョンジャンクァン)


       なんとビックリマーク朝鮮王朝第二代王定宗の末息子として(後宮淑儀奇氏との間


       の四番目の息子として)生まれた茂林君善生の後孫。


       宗室(王族)では有ったものの李聖浩の2男2女の長男として誕生するが、


  妾の子(庶孼:ソオル=庶子とその子孫)であったため、父を父とも呼べず、


       貧しい環境で育った。正規教育はほとんど受けることは出来なかったが


       生まれ持っての聡明さで、6歳頃には〝字″を覚え、若くして


       朴齊家(パク・チェガ) ・柳得恭(ユ・ドゥッコン) ・李書九(イ・ソグ)と共に


       「巾衍集」という四家詩集を出し話題を呼び、その名声は「清」まで伝わり


       『四家詩人の一人』として称されるほどとなる。それがその後、(後の)


       正祖の耳に入り、身分を乗り越えて正祖の寵愛を受け、1776年正祖が


       奎章閣を築くと、1779年「檢書官となり「四檢書官の一人として活躍


       する ことになる。



   昌徳宮にある「奎章閣」


       注意奎章とは「王の詩文や文」を表す言葉です。奎章閣はその名の通り

         王の文と書物を収集保管するための王室図書館の役目をしました。 


 



   (昨年6月撮影カメラ


          (奎章閣前の池に面した道はドラマでもよく登場しますね)



       本を読むのが大好きで自ら간서치(カンソチ:看書痴・・・本ばかり見て


       いる馬鹿)と呼ぶほどでした。   (享年53歳 病死)



            。。。 映画とは違い 父:李聖浩は右議政という高官職では


               有りません。 正五品の官職であったようです。

               また、白東脩(ぺク・ドンス)と実際にも姻戚関係でした。


               ドンムの妻はドンスの妹ではなく二歳上の姉であったとか。



  もみじ白東脩(백동수:ぺク・ドンス)    


     1743年(英祖19)生~1816年(純祖16)没

 
  
 (オ・ジホ)


      本貫: 水原(수원スウォン)  諱: 東脩(동수ドンス)


     字:永叔(영숙ヨンスク)  号:野餒(야뇌ヤネ)または 靭齋(인재インジェ)


            。。。本貫が水原であることも「水原遷都」を夢見た「正祖イサン」に

                繋がって 何だか 嬉しい気がします ラブラブ!チョキキラキラ


  武芸に優れ、当時の「槍剣」の第一人者として目され、「馬術」「弓術」にも秀で、


    さらに 朴趾源(パク・ジウォン)、李德懋(イ・ドンム)、朴齊家(パク・チェガ) など


    実学者たちとも親交が深く、学問にも深く成就、書芸にも功績が深いと伝えられる。


    倭剣を朝鮮に伝えた金體乾(キム・チェゴン)の息子金光澤(キム・グァンテク)に


    武芸を師事。1771年(英祖47年)に「武科」に及第するも、ソオル(庶子の子孫)


    と言う身分のため役職を受けることが出来ず、1773年家族と共に江原道麒麟峽


    (今の 江原道麟蹄インジェ・・・軍事境界線に接するあたり)に移り、酪農を


    しながら、武芸を磨いた。    。。。ドラマ「武士ぺク・ドンス」思い出しますラブラブ!



     つまり、簡単に言うと。。。 ≪文・武に才能が高いドンスでしたがソオルと言う


     身分の壁により前途を絶たれ家族と共に田舎に移り住みながらも武芸を磨いた。


     ドンム達も同様・・・です。


     やがて正祖が即位すると、「身分に関係なく才能の有る者を登用し活躍の場を


     与えよう」と言う政策を遂行。庶子出身の実力者を発掘、その活躍の場が開ける


     こととなりました。 このドンスも、そしてドンムもその一人に。。。。。≫



     正祖が即位すると、丁若鏞(チョン・ヤギョン)等を要職に重用。1779年には


    李德懋(イ・ドンム)、朴齊家(パク・チェガ)等が奎章閣(キュジャンカク) の


    檢書官に任命されるなど庶子出身の実力者が登用される事となり、1780年


    (正祖4年)再び漢陽へ戻った。1785年(正祖9年)に正祖が 親衛軍営である


    壯勇營(ジャンヨンヨン)を創設すると、 集春營(チプチュンヨン)と御營廳(オヨンチ


    ョン) の哨官(チョグァン)を歴任し、1778年からは 「壯勇營哨官」となる。


       。。。正祖イサンの「素晴らしさ合格」です。庶子の未来を広げて活躍の場を

 
          つくった・・・数々の「改革」を目指した 正祖らしい行動でした。


          その様子は、ドラマ「イサン」でも沢山描かれています。それまでは、


          たとえ才能に恵まれていようと、冷遇されていたわけですから。




    1790年(正祖14年)には王命を受けて 李德懋、朴齊家と共に

 

    『武藝圖譜通志(ムエトボトンジ)を編纂したのだが、ドンスが直接技芸をやって


    見せて、編纂作業を監督させるなど重要な役割を任されたそうです。4巻4冊に


    編纂されたこの「武藝圖譜通志」は24種に及ぶ各種武芸を「絵」で書き表され


    詳しく説明がつけられた素晴らしい「兵書」である。  (下記参照ください)


    その後、武芸の訓練を担当する訓鍊院(フンリョンウォン) 主簿(チュブ)に、


    翌(1791年)には正五品の 副司直(ブサチク) に登り 訓練院判官に任命。


    1792年には忠淸道 庇仁縣監(ビイニョンクァン)になり、1795年には正四品


    の訓練院僉正(チョムジョン)となった。


    正祖の急死により幼い純祖が即位した後、平安道「博川郡守(パクチョングンス)」 


    に任命されるが「賄賂」を受け取ったと言う罪で流刑されるが、後にそれを解かれる。


    1806年(純祖6年)には領議政 李秉模の訴えにより再び流刑とされ、官職につく


    ことが出来ないよう禁錮刑とされる。


    1810年には再び恕容され、正三品 「軍器寺副正」となるも、1816年(純祖16年)


    74歳でその生涯を閉じる。


       。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


     以前、ドラマ「武士ペク・ドンス」にどっぷりハマって調べまくりました(笑)


        あと少しだけ ・・・ しつこくにひひ汗 お付き合いくださいませビックリマーク


       。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



      曽祖父 白時耉(ペク・シグ) 


         。。。 19代粛宗(ドラマ「同伊」の王様ひらめき電球)には世子(後の景宗


           = チャン・ヒビンの子)が居ましたが、次第に疎ましい存在


          になり、後の英祖(同伊の息子)に世子を変えようとします。


          しかし、粛宗が死にそのまま景宗が即位しますが、その体が


          弱く、子供が出来ないことも理由にこの(後の英祖)を「世弟」


          にと。それを不服とした「景宗支持派」が有る事件をでっち上げ


          「景宗暗殺を謀る裏に英祖が」と。


          ( 英祖即位後は、名誉回復とされますが)


          関連して、多くの者が粛清により 殺されます。


             ・・・「辛壬士禍」 : 


               景宗支持派(少論)と英祖(ヨニン君)支持派(老論)


               の争い。老論が粛清される。


         その争いに関わったとして 殺されています。 (老論派だったんですね)



       祖父  白尙華(ペク・サンファ) ・・・白時耉(ペク・シグ)の「庶子」


   父   白師宏(ペク・サグェン) 漢陽で 龍驤衛(ヨンヤンウィ) 副護軍)を


                           していた。


    白東侃(ペク・ドンガン) ・・・・ 弟が居るのです。

 

                ドラマ[武士ペク・ドンス」のイメージ壊してしまいますがガーン


                実際には。。。「お腹に居るドンスを庇って逃げ延びた母、


                「四肢の曲がった子」と言うのは。。。創作されたお話でした。あせる



       夫人 晉州柳氏(チンジュ ユ氏


               。。。ドラマ「武士・・・」同様 実際にも 「ユ・・・・」です 合格


                  「ジソン」かどうかは分かりませんでしたが ショック!


   Marcallのイケイケ韓国ブログ ドラマ「武士ぺク・ドンス」より


             夫人は (1738年生~1790年没) 。。。

              なんと 本当は 「ドンスより 五歳年上 にひひ」だそうです。



      息子  白心鎭(ペク・シムジン)



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    何だか イ・ドンムのことより この「ぺク・ドンス」 アッ~~ク語ってしまいました。


      李徳懋(이덕무:イ・ドンム)についてはまだまだ知識が足りません。


      また新しい「発見ひらめき電球」が有りましたら追記させていただきたいと思います。


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    それでは今回は最後に。。。。。


       白東脩が李徳懋、朴齊家と共に編纂したとされる


         『武藝圖譜通志(ムエトボトンジ)』 本 とは


     Marcallのイケイケ韓国ブログ (画像お借りしました)
 



       1952年、平安道で発掘された本書は現在、平壌の人民大学習堂に保管


       されているとか。 なかなか観にいけそうも・・・・・・・ ガーンあせる



    ≪ 「武芸図譜通志」(漢文)は、朝鮮で長い間伝えられてきたさまざまな武術動作


      を総合的に体系化した武術図書だ。李朝22代王である正祖(正宗)の指示で


      編纂され、1790年4月、朝鮮語で書かれた「武芸図譜通志言解」とともに


      刊行された。 同図書は剣術と槍術、こん棒術、乗馬法、拳法などの動作を図解


      とともに解説している。図は、李朝時代の著名な画家である金弘道が描いた。


                       (ドラマ「風の画員」の ・・・です。)べーっだ!



      本の説明と編纂には実学者である朴斉家(パクチェガ)と李徳懋(イドンム)が


      参加。武術の具体的な技術指導は、当時武士の訓練機関であった「訓練試監」


      傘下の将軍であるペク・トンスが担当した。    ≫



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          次回は 。。。 


           この映画の最後に出て来る ≪この人≫クラッカー


            


            。。。 あの ○ョ○・○○ョン です ラブラブ