ドラマ「イサン」を観ていて 。。。
マッタクなんで~
って思いませんでしたか?
あ~~んなに〝悪行三昧″ されまくったのに~
どうしてイサンは 金亀柱を『死罪に』に踏み切らなかったのでしょう
最大の「天敵」であった(祖父王英祖の継妃)貞純王后と共に
もしも ≪断罪≫していたら ~~~
。。。 そんな想いに駆られながら
今回は この金亀柱(キㇺ・グィジュ)が
どうして、単に流刑となっただけで、
死罪を被ることなく 「死に至るまで」
どのような経緯をたどったのか 。。。
深~~く追求してみました。
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~お気づきの点、間違い等ありましたらどうぞお知らせください~
修正も有るかと思います。お許しください
(marcall)
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≪金亀柱(김귀주:キㇺ・グィジュ)≫
1740生~1786年(正祖10)陰7月22日没 享年47歳
。。。この没年 1786(正祖10)をご覧になって
ハッとなる方もいらっしゃるかと。。。
歴史好きな方、ご想像通り
「孝昌世子、宜嬪成氏」が急死した〝同じ年″死亡
と言う事です。
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それでは 。。。 この金亀柱の「生涯」を辿ってみます。
1759.6.9妹が英祖の継妃に揀擇、 6.22昌慶宮にて嘉禮を挙げると
やがて貞純王后と共に世子(思悼世子)の非行を王に逐次報告し、金尚魯・
洪啓禧(ホン・ゲヒ)等と、1762.7≪世子を米びつ死≫させる事件を主導した。
王の外戚として南党を作り、当時の実力者洪鳳漢(ホン・ボンハン:世子妃の父)
の北党と対立。 洪鳳漢を弾劾すべく激しく攻撃し「攻洪派」とも呼ばれた。
後に王世孫が即位したとき、家門が没落することを恐れ洪鳳漢勢力除去しようと
1770年洪鳳漢が世孫を取り除き、恩彦君(ウノングン)を推挙しようとしている
と上訴し、洪鳳漢は清州へと流配されるが、偽りだとの世孫の訴えにより流配を
解かれる。
1772.7.21世孫(イサン)が外祖父である洪鳳漢に送った手紙の
中にはこんなことが書かれているようです。
(違訳があるかもしれませんが、イサンの心情が
)
「朝廷に忌まわしい上疏が溢れていて陰鬱極まりない。古今天下の
どこにこのような凶悪で反逆な下心を抱く者が居るというのでしょう。
憤りが爆発し、我もわからず髪の毛が逆立つ程の怒りがこみ上げました」
(この事件の事を指して書いているのかはわかりませんが、
当時の凶悪な陰謀渦巻く朝廷の様子に、イサンが苦悩していた
姿が感じられます。
。。。実際のイサンは、もっと想像以上に苦悩に喘いでいた
のかもしれませんね~ 実録を読んでみると、臣下達
の上訴に激しく発言している様子もうかがえます。
イサンが王位に就くと。。。 正祖実録よると
1776(即位年)9.9 漢城左尹金亀柱を黒山島(フクサンド)へ流罪に処す。
当時病気であった恵慶宮の見舞いに行かなかった事が
表むきの理由だったと言うのですが (ビックリ)
実は、外祖父洪鳳漢に対する度重なる攻撃に対しての処分
だったようです。
翌、1778(正祖2)12.4 金亀柱の政敵であった洪鳳漢(正祖の
母:恵慶宮の父=正祖の外祖父)が死亡
1779(正祖3)6.28 金亀柱を圍籬安置(ウィリアンチ)とするよう加棘(カグㇰ)
するよう命じた。
以前も書きましたが、この「圍籬安置(ウィリアンチ)」とは。。。
朝鮮時代、罪人の外部との接触を一切禁止する為、棘の垣根を
周りに張り巡らせ、重罪人を隔離すること。。。 極めて重い措置
この1779(正祖3)の出来事には
5月7日 元嬪洪氏(正祖後宮:洪國榮の妹)が死亡
その後。。。(ここでは省略しますが)
この間に洪國榮が弾劾を受けて流刑となり、
1781(正祖5)4.5 洪國榮死亡。
1782(正祖6)9.7 成氏が王子出産(後の文孝世子)
同 11.27 王子を「元子」と定める。
同 12.28 成氏を正式に「昭容(ソヨン)」冊封
≪同年12.6 には 鄭妻(正祖実叔母である和緩翁主)を
絶島から内陸に移配するよう命じる
。。。こちらはテーマ
~思悼世子「米びつ死事件」の真相に迫る~
で詳しくしつこく追求いたしましたので
どうぞご参照ください
(これは慶事に伴う恩赦の措置だと思うのですが
金亀柱に対しては何も変わりありません)
1783(正祖7)2.19 成氏に「宜嬪」の称号を贈る
1784(正祖8)3.20 宜嬪成氏、翁主出産
同 5.12 翁主の死
同 7.2 元子を「王世子」に冊封する。
(冊封式は 8.2)
同 7.7 英宗大王(祖父王英祖は当初〝英宗″と
されましたが、後に26代高宗の代に英祖
と変更されました)・貞聖王后・莊獻世子・
恵慶宮に尊号を追上。
そして~~~遂に
1784(正祖8)8.3 特赦令が出され、黒山島に圍籬安置(ウィリアンチ)
されている〝金亀柱を内陸に移せ”と
これには臣下の猛反対が有ったようですが、
正祖は「慈殿(貞純大妃の事)のお気持ちを慰め
しようと思うので、これ以上言及するな」 。。。と
(こんな正祖の孝行心大妃には伝わったのでしょうか
)
しかし。。。 約2年後 1786(正祖10)7.22 金亀柱死亡
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この ≪金亀柱の死亡原因≫ については
一説によると 「病死」となっていますが
何と 「賜死」となっているモノも見つけました
どれがどう正しいのでしょうか調べれば調べるほど難しく
とっても私の頭では判りません。(当然かもしれませんが)
真実を見つけようと毎日ホント頑張りました~~(笑)
長い時間かかりましたが。。。悔しい、ザンネン
ただ。。。 正祖実録によると
亀柱の死の報告受けた正祖は 「遺体を丁重に家族の元へ運ぶよう。
葬祭に必要なものを充分に贈るように」と指示しているようです。
。。。 正祖には「賜死」させるつもりは無かったと思いたいです。
ただし、この死が「大妃」にはどう映ったでしょう
何だか。。。 正祖への恨みが激化したように思えてなりません。
毎回毎回「切実に訴える」大妃に。。。正祖の孝行心
が負けて
しまったと言う事なのでしょうか~~、悲しい悲しい想いが残りました。
いろいろ楽しませてもらえたこのドラマ「イサン」には
ホント 感謝感謝
です。
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と言う事で 。。。思悼世子を死に追いやった黒幕の一人
とされる貞純王后の兄金亀柱について調べてみました。
なかなかすっきりとは出来ませんでしたが。。。
貞純王后(大妃)の兄 ≪金亀柱≫の死に至るまでの
真実の「一端」が見えたような気がします。
以前、「米びつ死の真相」を調べながらブログにまとめていた際に
まるっきりそのままこの〝未熟なアジュンマのブログ″を転写掲載
ご自身のブログとしてアップなさっている方がいらっしゃると、
偶然見た方からお知らせいただき 他のブログサイトなのですが、
「拝見」させて頂いてビ~ックリ ちょっとショックでした(笑)
丁重にお断りしたつもりですが、逆に「あなたの書いたモノだと
しても転載は自由だ。お知らせした方も余計な事を」 と
驚くような逆切れコメントいただき 何だか訳が分からず
落ち込みました。 (はっきり言って、迷惑非道!!)
でも、韓国史劇の楽しさ。。。やっぱり興味は尽きず
≪ どうぞ、これからも 。。。
楽しく 韓国史劇
大好きな皆さんご一緒に
盛り上がっていただけると嬉しいです~~~ ≫
楽しいコメントお待ちしております。
韓国史劇って 本当に良いですよね~~~
史劇の楽しさと 楽しさ共感していただける皆様に
感謝 感謝
で~~す。
どうぞこれからもよろしくお願いします
今回だけ~~ ≪アジュンマmarcallの愚痴≫
お許しくださいませませ