訂正します: テーマを(ドラマ「大王の道」関連)といたしましたが
内容が「思悼世子の最期を正史・野史で検証」まとめたものですので、
以前より深く調べてきましたテーマ(思悼世子「米びつ死事件」の真相に迫る)
に加えたいと思います。
(同テーマの記事と続けてお読みいただけると嬉しいです)
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( 画像: ドラマ「大王の道」より )
ドラマ「大王の道」も最終話 。。。 遂に「世子が壮絶な最期」を遂げます
世子の“奇行”はますます酷くなり とうとう
一番心を痛めたのは この 世子付きの 「尚宮」 と 「内官」 だったはず
尚宮は 最後まで世子をお守りできず・・・と首つり自害
内官はじめ 世子の側近の者達は 後に廃されます。
この死に関しては唯一
後に 「恵慶宮」となった世子の妃(つまり正祖イサンの母)が書いた
「恨中録(閑中録とも)」 が この一連の“記録”となっています。
その後。。。このことを深く悔やんだ「英祖」が 哀悼の意を込め「墓碑」を書き
世子の身分を回復させ 「思悼世子(サドセジャ)」という謚名を与えました。
とても親孝行だった「イサン」も即位するとすぐ自分は「思悼世子」の息子だ
と宣言、父の名誉回復のため 『洗書』をしたそうです。
王にとっていわゆる「汚点」となるようなものは、当然史実に残すことは出来ず
この事件に関しても、ほんのわずかな記録しか残されていません。
( 正史と言われる「朝鮮王朝実録」 と 野史として伝わっているものを
比べて検証してみようと いくつか本を買ってきました。
どちらが正しいのか、どちらも正しくないのか・・・わかりませんが
この一連の「悲しい死」について調べた結果として書いておこうと思います)
参考文献 : 조선왕조실록 (朝鮮王朝実録)
조선왕조비사 (朝鮮王朝秘史)
왕이 못 된 세자들 (王になれなかった世子達)
文責はMarcall に有り、確実なものではありません。
間違い解釈している部分もあるかとも思います。お気づきの方は
どうぞお知らせください。 速やかに修正したいと思います。
ご理解の上、画像も含め転記転載はご遠慮ください
正史と言われている 「朝鮮王朝実録 英祖実録」には
1762年(英祖38) 陰5月13日 2番目の記事に
世子を廃し「庶人」とした記録が
ここには、世子妃の父(ホン・ボンハン)を始め臣下の者の悲痛な訴えが有ったものの
生母の辛い告白を受けた英祖の苦渋の決断が書かれています。 世子を「監禁」する
よう命じました。 世孫(後の正祖)が慌てて入ってきたことも書かれています。
世子妃や世孫をはじめとする子供たちを、ホン・ボンハンの私家に移すよう命じました。
同 14日 1番目の記事に
宦者 朴弼秀を始め 世子をそそのかし遊宴させよからぬことに引き込んだとし、
朴弼秀、安巖洞のカソンという尼、並びに西邑の妓生五名を斬首刑に処す。
同 17日 1番目の記事
王は 太僕寺へ出向き、自ら嚴弘福(オム・フンボク・・・世子の側近)を尋問する。
同 翌日 (18日) に 斬首刑に
同 19日 二番目の記事に
13日の「世子廃位」の際に入ってきた侍講院(世子侍講院)・翊衛司(世子の護衛)
の者達すべてを罷免するよう命じる。
1762年(英祖38) 陰5月21日 2番目の記事に
世子がついに 「薨逝」したことが
世孫の心を慮り、世子の身分を回復し 「思悼世子」の諡號を贈る。 王世子として
葬儀を執り行い「三年葬」とする。
嬪宮(世子嬪)に、「恵慶宮」と號を贈る。
そして 。。。 その後 23日の1番目の記事には
王(英祖)が 「痰滯」の症状が出て 醫官を留直させた
。。。 つまり これは 「心労」の為だったのでしょうか~~~~
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確かに 正史(英祖実録)にはこのように記載されていますが
世子が 果たして「本当に米びつに入ったのか」
本当に 「8日間の間、水さえも与えられず 。。。
かなり病気が進行し体力も落ちていたはず」なのに
。。。 果たして 本当に「もちこたえた」のでしょうか
とっても 「疑問」 です。
参考文献の中には
「実は、穴があけられていて そこから水や食べ物を入れた」 との説や
米びつからは出されて 「監禁」されているうちに病が悪化、死亡したのでは
との説も。
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何が真実だったのでしょうか でも事実 「世子は「薨逝」
ドラマの様に 。。。
5月20日に「薨逝」したが、 米びつの釘がどうしても抜けず遺体安置に
時間がかかり 翌21日に祭祀を。
その為「21日に薨逝」 したこととされた 。。。 のかな
(まだまだ 分からないことばかり)
ますますビョンフン監督に お話聞いてみたい気がします
本当に 寂しい一生だったこの「思悼世子」
「党派争いの犠牲者」となった世子の最後を
ドラマ「大王の道」の画像で まとめてみたいと思います。
世子嬪との間に「世孫はじめ1王子2王女」
実際には〝2王子2王女" 幼くして亡くなった長男が居ました。
(世孫サンは次男なのです )
「2王子」
その他、
ビンエと呼ばれた後宮守則朴氏(後に貴人→景嬪)の間に 「1王子1王女」
思悼世子 (1735.陰1.21生~1762.陰5.21?没)
子女:4男3女 享年28歳(今で言う27歳)
・・・「大王の道」字幕は”27歳”と
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どう考えても 惨く哀れで悲しい ≪思悼世子の死≫
最後は こんな 「優しい」 画像で終わりたいと思います
この場面が 一番心に残りました
「民」の為の国を作るように 「聖君」になれ と。
(参考ドラマ「大王の道」 ~1998年MBC~)