幼い王 甥!「端宗」 から 王位を 剥奪したという 汚名がついて回る
「朝鮮王朝 第7代王 世祖」 ![]()
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ドラマの中では 。。。。。 とても ひどい王様に描かれていますが
そのすべてが首陽の真の姿では なかったように思えます。![]()
実際に起こった事件や結果を考えると・・・「あまりにも凄惨で
」ですが、
この世祖が在位中残した「功績の数々」はとても素晴らしく、それを「全否定」
されてしまうのも・・・残念な気もします。 ![]()
でも。。。 やっぱり、あの幼い「端宗」を殺しちゃうまでは
どうにか 思いとどまれなかったのでしょうかね~~![]()
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「首陽大君(後の7代王世祖)」については一度書きましたので
今回は少しだけ
(関心のありの方はご参照ください)
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・・・(世祖後宮の一人に「申叔舟の庶女」が)
世宗の次男として生まれ、その「王」としての資質は
父王も 「見抜いていた」と。。。。。。 ![]()
世宗は 世子(後の5代文宗)の 穏やかな気質を愛していましたが、
次男(首陽大君)が 計り知れない「力」を備えていることを、
一方では 喜びつつも 一方では憂いて いました。 ![]()
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したがって、父世宗は首陽に様々な学問、「王を補佐する」事を学ばせ、
将来兄をしっかり補佐するよう命じたそうです。
息子を同じように愛しつつも 王位は長男である「世子」にと 法を定め
ました。 そして、亡くなるときにも しっかり遺言を残して逝きました。
それでも 。。。。 これほどの 「血の嵐」が 起ころうとは ![]()
これも 父 世宗が案じていた通り ![]()
王位を継承した世子(文宗)が 病弱で わずか3年も持たずに
この世を去ったのが 。。。 一番の「原因」 であったのでしょう ![]()
そしてもう一つの大きな「原因」が ![]()
幼くして即位する王「端宗」には、代って≪垂簾聴政≫を行う母(大妃)も
その先代の大王大妃もいないことです。 父文宗が即位前、後宮であった
母との間に生まれた端宗と姉(敬恵公主)。母は端宗が生まれて間もなく
死に、後に王后として追尊されるものの。まして祖母である(先々代王=
祖父王世宗の妃)昭憲王后は世宗大王以前に亡くなっているからです。![]()
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このような 「下地」の基に 。。。
叔父である 「首陽大君」が 乱を起こし、反対勢力を抹殺・・・
幼い 甥である 端宗(6代王) から 王位を剥奪するに至ったのです。
この、今も「汚名」が付きまわっている「7代王世祖」(首陽大君)ですが、
本人の 「自業自得」
なのか。。。 子供に「縁が薄い」
のです。
その。。。 『世祖の家系』 を少し詳しく書いてみます。
王后 : 貞熹王后 尹氏(정희왕후 윤씨・ジョンヒワンフ ユン氏)
坡平府院君 貞靖公 尹璠(パッピョンプウォングン
ジョンジョンゴン ユン・ボン)の娘
(1418年 陰暦11月11日生~ 1483年3月30日没)
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兄の後孫に 11代王中宗の第一継妃「章敬王后 」
・・・12代王仁宗の母
弟の後孫に 11代王中宗の第二継妃「文定王后」
・・・13代王明宗の母
更にその「弟の家系」には。。。
12代王仁宗の後宮「淑嬪 尹氏」 がいます。
。。。。。。。。。。。。
まったく
驚くべき「ごちゃごちゃ」 ![]()
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実はこの「世祖王后」がすごい女性だったからその家系
から是非「王后」や「側室」をと望んだのでしょう。
貞熹王后 尹氏は 朝鮮王朝で初めて「垂簾聴政」を
行った王后なのです。
この「垂簾聴政」とは王が幼い場合、先王后(大妃)や
先々王后(大王大妃)が代わりに「摂政政治」を行う事。
貞熹王后は、世祖が亡くなった後即位した次男「睿宗」の
補佐をしますが、わずか1年2か月で睿宗が崩御。
その息子はまだ4歳であったため、若くして亡くなった
睿宗の兄(懿敬世子・・・「王女の男」でセリョンの弟であり
父である世祖の長男(懿敬世子)として登場、ドラマでも
その早い死が描かれていましたね~![]()
)の忘れ形見、
二人の息子のうち、長男(月山大君)は病弱であったため
次男である乽山大君を貞熹王后が推して即位(9代成宗)
させますが、この時まだ13歳であったため、最初の7年間
この貞熹王后が代わりに摂政政治を行いました。
世祖と貞熹王后の「嫁」であり、懿敬世子の妻であり・・・
何よりも(笑)この「成宗」の母である昭恵王后韓氏(後の
仁粋大妃)はこの貞熹王后よりもはるかに「女傑」
であったようにも伝わりますが・・・義母である貞熹王后が
存命中は・・・一応控えていたのでしょう![]()
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(ドラマ「王と妃」や新ドラマ「仁粋大妃」はまさにこの「女傑」
であり成宗の実母「仁粋大妃」にスポットが当てられ作られ
ていますので、併せてご覧いただくと面白いと思います。)
。。。というわけで「世祖妃 貞熹王后」の家系から「嫁」を
となったのも「しっかりと王を補佐」してくれる王后をと
いうことからかなと思います。
(この「女性」たちの系図については、
詳しく調べていますので・・・何しろ「ぐちゃぐちゃ」で
量も「膨大
」 ・・・うまくまとまるか ![]()
ですが
時間をかけて 「ライフワーク」として まとめて行こうと
思っています。 ![]()
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)
(貞熹王后の)子女
長男 : 桃源君 李暲(後の懿敬世子 李崇) ・・・早世
(1438年陰暦9月15日生~1457年9月2日没)
・・・第9代国王成宗の父。 「徳宗」と追尊。
次男 : 海陽大君(後の8代王睿宗)
(1450年陰暦1月1日生~1469年11月28日没)
女 : 懿淑公主
(王女は一人となっていますが・・・ドラマ「王女の男」のように
もう一人居た「形跡」も
あるのです。 ・・・ここでは「世祖実録」
をもとに 「一女」としていますが 必ずしも「正史」が正しいとは言え
ないとの意見も。 ドラマのように「何かワケがあり、その存在の形跡
が消し去られた![]()
」のかも~~
)
このことに関連し 調べたこんな「事実」
「王女の男」関連ブログの中に書きました。(ご覧くださいね)
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その他 は 簡単に書いておきます。
(後宮) 謹嬪 朴氏
子女 : 徳源君 李曙(1449年生~1498年没)
昌原君 李晟(1458年生~1484年没)
廃昭容 朴氏
淑媛 申氏 (申叔舟の庶女)
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ここで ![]()
・・・ となりました。
この「世祖」
自業自得 かもしれませんが~~~~~ ![]()
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「何とも 子供に 縁が薄いと思いませんか ![]()
」
子供達に 「何の罪も」ありませんが。。。。。
正室からの王子二人
「懿敬世子(桃源君)も後を継いだ睿宗(海陽大君)も」
共に 満19歳前後の生涯でしたから
そして ・・・・
その後の 「9代王成宗」即位にいたるゴタゴタ![]()
にもつながったのでは。。。。。
更に その成宗の息子「燕山君」の 「狂乱」の時代へと続きます。
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またまた 「ふか~~く」 考えすぎてしまいました ![]()
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「朝鮮王朝史」 知れば知るほど 面白いです ![]()
文責はMarcall に有り、確実なものではありません。
ご理解の上、画像も含め転記転載はご遠慮ください ![]()
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皆様の 楽しいコメントお待ちしてま~~す ![]()
最後まで お読みいただきありがとうございました。 ![]()
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