今でも 韓国人にとって 重要な 「本貫」
「姓」と共に 一族のルーツを示すものであるのは
ご存知の方も多いと思います。
(以前取り上げた事もあります )
特に 「王朝において」 王の 妃や側室、臣下 等 重要な役割を
任せられる関係を 結ぶためにも この 「・・・・の・・・・氏」が 重要な
ポイントとなっています。
大きな「力」を得るために「派閥争い」が起こりますし
そのため 「悲しい 悲惨な血の嵐」も吹き荒れるのです。
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それでは
イサン母の「本貫」であり イサン側近である洪國栄の「本貫」でもある
『 豊山 洪氏 』 について
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まず 「恵慶宮洪氏」 はどういう 「家柄」 だったのでしょう
少し時代を 遡りますが・・・(どうしても必要と思いますので)
『朝鮮王朝第14代 宣祖』 の時代を少し
「14代 宣祖(昖・ヨン)」
(1552年11月11日旧暦~1608年2月) 57歳
在位(1567年7月~1608年2月) 41年
8人の夫人から 「14男11女」
最初の王后懿仁王后朴氏(ウィインワンフパク氏)は子が無かったため
後宮である恭嬪金氏(コンビンキム氏)の次男「1575年生・光海君琿(ホン)」
を王后の養子とし世子にしますが、王后死後迎えた若い「継妃仁穆王后金氏
(インモクワンフキム氏)」が1603年王女貞明公主(ジョンミョンコンジュ) に
続き 1606年 王子永昌大君俎(ヨンチャンテグンウィ)を産むと、宣祖は王位を
この〝唯一の嫡子″である 永昌大君を 「世子」に据え換えようとしますが、
1608年 出来ないまま死亡。 王后は大君たちを守る為、光海君王位継承承諾。
1608年 「光海君」即位 (朝鮮王朝15代王)
この「継妃仁穆王后金氏」について追記
(1584-1632没 享年49歳)
1603.陰5.19 貞明公主出産
宣祖52歳の歳で21番目の子であり10番目の王女。
初めて正室から生まれた娘(嫡女)であった為、王は
大変寵愛したそうです。
1604. 娘を死産
1606.陰3.6 永昌大君出産
こちらもあえて言う事も無く 宣祖にとってはこの年
となって、初めて授かった唯一の「嫡子」ですから
しかし、幼い公主・大君を残し、宣祖が亡くなり「光海君が即位」すると
1613.陰6.1 仁穆王后の 父金悌男(キム・ジェナㇺ)が王位継承に
異を唱え謀反を企てたとされ息子三人(王后の兄と弟二人)共々賜死。
これに連座して 「永昌大君」は廃庶人とされ江華島へ流配後、
1614年殺害される。
仁穆王后は娘貞明公主と共に「西宮(正しくは慶運宮=今の徳寿宮)」
へ幽閉される。母共々廃庶人扱いとされたが、公主の婚姻については
「翁主の禮」を持って執り行われたようです。
(光海君の母子に対する〝想い”は深かったと思いたいですね)
貞明公主 (長生きしましたよ)
1603.陰5.19生~ 1685.陰8.10没 (享年83歳)
もちろん仁祖反正により「光海君廃位」により復権され
16代仁祖~17代孝宗~18代顕宗・・・そして
19代粛宗の代まで生きました。
なんと!朝鮮王朝の公主の中で ≪一番長寿
≫として
記録されています。
こうして生き延びた「貞明公主」。。。後にこのように
子孫が継承されていったのですね~~~
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歴史は ≪ (15代光海君)~(16代仁祖)~(17代孝宗)~
(18代顕宗)~(19代粛宗)~(20代景宗) ~≫時が流れ
数々の「紆余曲折 」を経て
「21代 英祖」 が即位
1762年「壬午士禍」 ・・・荘献世子の「米びつ死事件」 と続きますが
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この 21代王英祖の次男であり、後に22代王となる正祖(李祘イサン)
の父である「荘献世子」の妃が今回 「気になる人物の一人恵慶宮洪氏」
です。
1744年 「良家の娘であった洪氏」 は世子の父である「英祖」にも
認められて 同じ10歳の世子へ嫁ぎ世子妃になりました 。
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それでは どれ程の「良家」だったのでしょう。
・・・・ココも 遡ってみると 「なんと」
この人に 貞明公主(ジョンミョンコンジュ)にたどり着きました。
(代前) この貞明公主の夫 になったのが恵慶宮洪氏から五代先祖の
永安尉(ヨンアンウィ) 洪柱元(ホン・ジュウォン)
1606?生~1672.9.14没
1647年「正朝使」として「清」へ、「時憲曆」を入手して帰国。
新しい歴法の施行を建議した。その後も度々「清」へ。
文臣としての高い業績を残した。
追加訂正: 長男 洪台望(ホン・テマン) 1625-? (早卒)
(代前)
長男が 洪萬容(ホン・マンヨン) 貞簡公(ジョンカンコン)
次男に訂正
(1631-1692) ・・・ その2へ
母親はもちろん 「14代王宣祖の娘・貞明公主」。
学業が優れ、1662年庭試甲科1位(壮元)及第。
1666年には重試甲科1位(壮元)及第。
・・・19代粛宗の時代「禮曹判書」の地位に
(代前) 長男が 洪重箕(ホン・ジュンギ) ・・・恵慶宮の曽祖父
(1650-1706)
儒学者。 官職は「別檢掌苑署」を始め
「廣興倉主簿・宗簿寺主簿・太僕寺主簿・
戶曹正郞」などを歴代する。
(代前) 次男が 洪鉉輔(ホン・ヒョンボ)貞獻公(ジョンホンコン)・・・ 恵慶宮祖父
(1680-1740)
頭脳明晰、1718年(粛宗44)庭試甲科壮元(主席)及第。
・・・21代英祖の時代1740年「禮曹判書」の地位に
(代前) 長男が 洪鳳漢(ホン・ボンハン)翼靖公(イクジョンコン) ・・・ 恵慶宮父
(1713-1778(正祖2)12.4没)
ドラマ「イサン」 や 「武士ぺく・ドンス」 でもでていました
・・・娘婿は 「英祖の次男・思悼世子(荘献世子)」
右議政・左議政・領議政等歴任。
英祖を支え、朝鮮後期の文化復興に多大な
功績を残しました。
(イサンが王位に就くのを見届け、
翌年1778年・正祖2年に亡くなったのですね。)
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そして・・・ちょっと
洪鳳漢(ホン・ボンハン)にはこんな弟が
洪麟漢(ホン・イナン)
(1722-1776(正祖即位年)7.5没)
ドラマ「イサン」でのイメージとは違い、実際にはなかなかの人物だったようで
1774年には右議政、1775年には左議政に。
イサン不支持派(僻派)に加わり、イサン擁護する(時派)の兄洪鳳漢等と
敵対しますが、1776年正祖即位するとすぐに、4.7流配され 同年7.5賜死
となります。
・・・恵慶宮にとっては「叔父」 であり
イサンにとっては「大叔父」です。
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この 「家系」を見て こんな事に気づきました~~
なんと
「思悼世子」 と 「恵慶宮」 も 。。。 一種の「遠縁」にあたる
その 「中心」 になっているのが
≪14代宣祖の娘貞明公主と永安尉 洪柱元(豊山洪氏)≫
「思悼世子」や「正祖イサン」は 王族ですし・・・
「恵慶宮」は 王家の公主(正室の生んだ娘)が嫁いだ先で産んだ
どちらも「宣祖」の血を引く 「遠縁の間柄」だったんです
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次は この 「恵慶宮」と「洪國栄」の繋がり について
まとめて見ようと思います。
面白くて興味は尽きません~~(笑)